朴君愛さん、ヒューライツ大阪 職員
2012年4月29日
18:10-19:00
1.差別体験が、人権運動への道へ
これまで民間会社に勤めた経験がありません。大学を卒業し、大阪府八尾市にあるトッカビ子ども会(当時は在日コリアンの子どもたちを対象にした地域活動。現在では、ベトナム、中国をはじめ多様な外国をルーツに持つ子どもたちに対象が広がっている)の専従スタッフになり、民族差別撤廃をめざす市民団体のスタッフを含めて約10年間かかわりました。その後1994年にヒューライツ大阪が開設されたとき、職員として働きはじめ、現在に至っています。
大阪市で生まれ、小学4年で東大阪市に引っ越しましたが、わたしの小・中学校時代―1960年代から70年代前半―は、在日コリアンにたいする差別は、し放題・され放題だったという記憶が強くあります。私には、それを止めない先生も一緒になって差別の側に回っていると感じられました。
私は、在日三世ですが、親が日本名で、とにかく「ばれないように」エネルギーを使って暮らしていました。東大阪市の西南部ですから地域事情からすると同じ立場の子が結構いたはずなのに、それぞれが孤立していたように思います。学校にも地域にも、コリアンであることで安心できる場はありませんでした。
もちろん楽しい時間もあったし、友人と言える人もいたけれど、いつしか小・中学校の同窓会には絶対行かないと心に決めていました。あれから40年以上、やっと今、同窓生にもあってあの頃の話や今の気持ちを話してもいいかと思いはじめています。私をコリアンと知らずに目の前で差別したかつての同級生は、気軽に連絡をしてきて「会いたいね」と言ってきました。
心の折り合いをつけることができたのは、18歳以降、それまでとは別世界の日本人と出会うことができ、人間の価値や生き方を学ぶ豊かな時間があったからだと思います。それは人権運動を通じてでした。
小・中学の授業で憲法について学んだ時、「国民の権利及び義務と」という表現に、排除されている自分たちを一層感じました。立憲主義がどういう意味を持つとか、人権の最前線で起こっていることなどの情報は持ちえず、教室での民族差別発言があり、当時、国民健康保険も国民年金も公営住宅にも入れなかった自分たちの存在があり、憲法について教えられた時間は、ある意味「人権」を学ぶこととは反対の効果を持つものでした。「人権」という言葉をはじめて文字で読んだにもかかわらず。もちろんなぜ自分たちがここにいるのか、在日コリアンの歴史についても大学に入るまで知らないのと同然でした。
2、反差別教育と出会って勇気百倍
女性のいとこたちの中でははじめて大学に進学する機会に恵まれ、そこで本名でやっていくふんぎりがつきました。本名を名乗っている同世代の在日コリアンにも出会いました。韓国の軍事政権下での在日韓国人の政治犯救援運動がもりあがっていた時代でした。様々な社会の課題に取り組む運動の空気が大学内にもありました。大学4年生の時に、大阪市内の同和地区にある公立中学校の課外活動で民族講師をする機会がありました。地元の部落解放運動や教員などの運動の成果で、被差別部落の子どもたちが集まる会とは別に、コリアンの子どもたちを対象にした集まりの会がありました。そこで予算が少し確保されていて、私に、引き継ぎで週1回放課後、学校での民族講師として声がかかったのです。
1979年頃と記憶していますが、その頃はその学校が一番荒れていた時期だったそうです。コリアンの子どもも相当荒れていました。そんな子どもたちをみて、はじめは「コリアンは悪いとか汚いとか言われてきたが、こういう子がいるから、私たち全体が差別されるんや」というような意識を持ちました。しかし、教員から親たちの人生を聞いたりするうちに、そういう生き方に追い込んだ社会の意識や行政のやり方を変えなければ、何も解決しないと思えるようになりました。差別の現実を変えることなしに、本人たちにだけ差別に負けるなとは言えないということです。その学校で子ども会に中心になってかかわっていた先生たちの言葉は、私の心にじわっと染みました。その頃から、「○○人だからわかりあえる」のではなく、一人ひとりの個人のあなたを尊敬し、あなたが好きと言えるようになってきました。
この民族講師の経験からはじまった反差別の教育活動のおかげで、私は、本名でくらしていけると思えたし、自分が一人ではないことを知りました。社会運動の評価をめぐっては、どの運動もプラスの側面もマイナスの側面もありますが、少なくとも大阪の「同和教育」、在日外国人教育、反差別教育の運動は、プラス、マイナスを合算すると私の人生にかなりプラスの方にポイントを積みました。この教育運動に出会わなかったら、自分のアイデンティティを隠し、自分の親にネガティヴな感情を持ち、日本人に対しては深い不信を持ち続けてくらしていたと思います。
3、「ジェンダー」も「エンパワメント」も知らない時代
10年の間、荒れた人生しか生きることができなかったコリアンとも知りあい、その子どもたちとも身近になりました。家庭環境が複雑な子どもたちも少なくなかったです。学校から帰ると逃げていく子どもたちに対し、「同じ在日コリアンなのだから、子ども会活動に参加しよう」と、今思うと結構しつこく誘いました。果たして自分たちが、子どもたちにと豊かな関わりを持てたのか、子どもたちが、どういう気持ちだったのか、今、彼らのその後と本音を聞きたいと思っています。
ところで、私自身は、外から地域活動に入った大学出立ての20代の女性で、地域のコリアンの中に入っていった存在です。運動としても、地域のやり方に従って、いっしょにやることして信頼をえていくという方針でした。自分なりには一生懸命だったし、子どもの保護者にもよくしてもらいました。一方、地域でのつきあいの文化は、男女の役割分担もはっきりしていて、それを受けて入れて、入っていくことを求められました。私はまず冠婚葬祭の時の料理の準備が苦痛でした。何十人、何百人もの料理を、地域のおかあちゃんたちは、当然のように作るんです。私も含めて女だからそれを手伝うことを当たり前のように求められる。私は料理が得意ではなくて、しかもキムチを含めた辛いコリアン料理が苦手だったのです。
「ジェンダー」も「エンパワメント」も知らない時代でした。
4、国際人権基準と地域運動の成果がつながる
また20代は、日本社会で外国人の人権が劇的に向上する時代と重なり、その変化の真っただ中に参加したという得難い経験をしました。
1979年に2つの国際人権規約が締結され、続いて80年代以降、難民条約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約…が次つぎ日本に受け入れられていきます。日本国内での具体的な人権の課題を求める運動が、国際諸条約の批准運動とつながる形で進んでいきました。そうした国際的合意文書が「武器」となって、法や制度、行政のスタンスが変わり、学校の現場にもプラスに作用していく。自分たちの運動が変えたのだという実感は、勇気と自分の存在に対する肯定につながりました。「住まわせてもらっている」のではなく「同じ価値を持った人間なのだ。合理的な説明のできない区別は差別だ」という主張ができるようになったのです。
もちろん一人で声を上げられるはずもなく、小さくても同じ目標を持つ集団をつくることができたから成しえたことです。またそのグループは、他のもっと大きなグループの支援を得たからこそ、マスメディアに取り上げられるような成果に結びつきました。一方で、組織を作りあげている文化について、これでいいのかと疑問に思うこともありました。特定の組織ということではなく、一人ひとりが心地よく「参加」し、相互の多様性を認める、しかし必要なときには固くつながるというような組織文化が社会全体で十分に育っていないと思います。「参加」は、いろんな領域で未だ達成できていない私の課題のキーワードです。
5、「そういう存在であること」にこだわる
結婚して、子どもが生まれて、名前をつけようとした時、コリアン的な名まえがわからない。自分の中に「朝鮮文化」がほとんどないことに気づきました。大学で教養としての朝鮮文化を学んだのですが、文字の上の情報と生活のにおいは別物ですね。
最近、ソウルの遠い親戚を訪ねたときのことです。5歳くらいまで日本にいて、私の母とも一緒に遊んだが記憶がある人です。情厚く私に接してくれるのですが、息子のお嫁さんたちに「この人たちは日本人だから、今日の料理はいつものように辛くしたらだめ」と言っているのが聞こえました。同行していた母に、なんと言っているか通訳しながら、思わず苦笑です。親戚だけど彼らから見たら、わたしたちはもう日本の人なのだなと。1980年代、日本の運動の中では、「わたしたちは日本人じゃない。それを認めてほしい」ときりきりしながら言っていたのにね。
話せば長いですが、私は、日本でも韓国でもそこに住むマジョリティが想定しているどちらの側でもない、「そういう存在」であることにこだわって発信し続けたいです。なぜこだわるのか?という原点は、「それが理由で排除された」からです。次の若い世代のコリアンには私のような苦い思春期を味わうのではなくに、もっとのびのびと生きることができればいいなあと思います。そして「希望」を伝えたいですが、それは、過去をないことにすることからは生まれない。親たちの世代がどんな社会を生きてきたのか、そこから課題をみつけ、その答えを探すことから未来は拓くはずだと思っています。
6、国際的に共通理解されている人権というものがあるのだ
ヒューライツ大阪の正式名称は、一般財団法人アジア・太平洋人権情報センターです。気がつけば20年近くここで働いています。このセンターの設立の経緯や組織の情報はウェブサイトにアップしています。2008年度までは大阪府・大阪市・堺市から補助金を含めた支援を受けていました。
人権というテーマの性質上、センターの事業は、人権NGOや人権運動と関係なく進めることはできませんが、ここは純粋な運動団体ではありません。私はNGOや運動団体と行政、あるいはNGOと研究者との間にあって、それぞれのセクターをつなぐ役割を果たしたり、協働の事業を取り組んだりするポジションにあると思っています。
ヒューライツ大阪の事業を通じて、また新たな世界との出会いもありました。それは、「国際人権基準」という世界です。国際的に共通理解されている人権の全体像が把握でき、やっと人権とは何かについて私の胸にストンと落ちました。そしてそれは法律を専門にしている人たちから学びました。弁護士、国際人権法の研究者、あるいは国境を越えてテーマで人権活動をしている人たちでした。お恥ずかしい話ですが、人権は「人間の権利」だということにしみじみ納得しました。そして「権利」が、時には、人権教育を推進しているという教員にも嫌われている単語だと気付いたのもヒューライツ大阪に来てからでした。
「自由権」や「社会権」の確立の歴史、まず人権を保障する義務を負っているのは誰か、人権に関する条約とは何か…大学で法律を勉強している人たちには、世界の常識であったかもしれませんが、私にとっては、「そんな重要で基本的なこと、学校で早く教えてよ」でした。それまで、わたし自身は、私人間の差別事象への関心の比重が高かったのですが、逆に、人権を見渡す広い視野から、私人の間の差別事象を整理することの大事さがわかったのです。
でも法律家の人たちは、総じて人権教育には関心が薄いように思います。また、かつての私は、専門知識は、弁護士や研究者にお願いしますという態度で、人権に関する条約の条文も正面から読もうとしませんでした。確かに、法律用語は難解だし、日本語に訳された人権文書も読み進む気になれない。でも本来、一人ひとりが人権を学ぶ権利を持っているはずだし、その知識を本当に自分のものにしなければいけませんね。それぞれの人生にかかわる内容を含んでいるのだから。
人権の核心部分を理解することと、一人ひとりのエンパワメントを十分につなぐことができていないのは、私たち人権教育を実践している人たちの力不足と自覚不足だと思います。ヒューライツ大阪で働きだして、まもなく「参加型学習」という言葉を知り、それを日本で実践しようとしている教員グループとまず出会いました。ERICの出版した本やファシリテーターとしての角田尚子さんと出会ったのもこの頃です。ものの見方、伝え方を考えるのに随分いいショックを受けました。伝えたいのに、うまく伝わらない「国際的に共通理解されている人権」。人権への理解を深め、支援者を増やすためにどんな学びの場が有効なのか…模索が続いています。
2012年4月29日
18:10-19:00
1.差別体験が、人権運動への道へ
これまで民間会社に勤めた経験がありません。大学を卒業し、大阪府八尾市にあるトッカビ子ども会(当時は在日コリアンの子どもたちを対象にした地域活動。現在では、ベトナム、中国をはじめ多様な外国をルーツに持つ子どもたちに対象が広がっている)の専従スタッフになり、民族差別撤廃をめざす市民団体のスタッフを含めて約10年間かかわりました。その後1994年にヒューライツ大阪が開設されたとき、職員として働きはじめ、現在に至っています。
大阪市で生まれ、小学4年で東大阪市に引っ越しましたが、わたしの小・中学校時代―1960年代から70年代前半―は、在日コリアンにたいする差別は、し放題・され放題だったという記憶が強くあります。私には、それを止めない先生も一緒になって差別の側に回っていると感じられました。
私は、在日三世ですが、親が日本名で、とにかく「ばれないように」エネルギーを使って暮らしていました。東大阪市の西南部ですから地域事情からすると同じ立場の子が結構いたはずなのに、それぞれが孤立していたように思います。学校にも地域にも、コリアンであることで安心できる場はありませんでした。
もちろん楽しい時間もあったし、友人と言える人もいたけれど、いつしか小・中学校の同窓会には絶対行かないと心に決めていました。あれから40年以上、やっと今、同窓生にもあってあの頃の話や今の気持ちを話してもいいかと思いはじめています。私をコリアンと知らずに目の前で差別したかつての同級生は、気軽に連絡をしてきて「会いたいね」と言ってきました。
心の折り合いをつけることができたのは、18歳以降、それまでとは別世界の日本人と出会うことができ、人間の価値や生き方を学ぶ豊かな時間があったからだと思います。それは人権運動を通じてでした。
小・中学の授業で憲法について学んだ時、「国民の権利及び義務と」という表現に、排除されている自分たちを一層感じました。立憲主義がどういう意味を持つとか、人権の最前線で起こっていることなどの情報は持ちえず、教室での民族差別発言があり、当時、国民健康保険も国民年金も公営住宅にも入れなかった自分たちの存在があり、憲法について教えられた時間は、ある意味「人権」を学ぶこととは反対の効果を持つものでした。「人権」という言葉をはじめて文字で読んだにもかかわらず。もちろんなぜ自分たちがここにいるのか、在日コリアンの歴史についても大学に入るまで知らないのと同然でした。
2、反差別教育と出会って勇気百倍
女性のいとこたちの中でははじめて大学に進学する機会に恵まれ、そこで本名でやっていくふんぎりがつきました。本名を名乗っている同世代の在日コリアンにも出会いました。韓国の軍事政権下での在日韓国人の政治犯救援運動がもりあがっていた時代でした。様々な社会の課題に取り組む運動の空気が大学内にもありました。大学4年生の時に、大阪市内の同和地区にある公立中学校の課外活動で民族講師をする機会がありました。地元の部落解放運動や教員などの運動の成果で、被差別部落の子どもたちが集まる会とは別に、コリアンの子どもたちを対象にした集まりの会がありました。そこで予算が少し確保されていて、私に、引き継ぎで週1回放課後、学校での民族講師として声がかかったのです。
1979年頃と記憶していますが、その頃はその学校が一番荒れていた時期だったそうです。コリアンの子どもも相当荒れていました。そんな子どもたちをみて、はじめは「コリアンは悪いとか汚いとか言われてきたが、こういう子がいるから、私たち全体が差別されるんや」というような意識を持ちました。しかし、教員から親たちの人生を聞いたりするうちに、そういう生き方に追い込んだ社会の意識や行政のやり方を変えなければ、何も解決しないと思えるようになりました。差別の現実を変えることなしに、本人たちにだけ差別に負けるなとは言えないということです。その学校で子ども会に中心になってかかわっていた先生たちの言葉は、私の心にじわっと染みました。その頃から、「○○人だからわかりあえる」のではなく、一人ひとりの個人のあなたを尊敬し、あなたが好きと言えるようになってきました。
この民族講師の経験からはじまった反差別の教育活動のおかげで、私は、本名でくらしていけると思えたし、自分が一人ではないことを知りました。社会運動の評価をめぐっては、どの運動もプラスの側面もマイナスの側面もありますが、少なくとも大阪の「同和教育」、在日外国人教育、反差別教育の運動は、プラス、マイナスを合算すると私の人生にかなりプラスの方にポイントを積みました。この教育運動に出会わなかったら、自分のアイデンティティを隠し、自分の親にネガティヴな感情を持ち、日本人に対しては深い不信を持ち続けてくらしていたと思います。
3、「ジェンダー」も「エンパワメント」も知らない時代
10年の間、荒れた人生しか生きることができなかったコリアンとも知りあい、その子どもたちとも身近になりました。家庭環境が複雑な子どもたちも少なくなかったです。学校から帰ると逃げていく子どもたちに対し、「同じ在日コリアンなのだから、子ども会活動に参加しよう」と、今思うと結構しつこく誘いました。果たして自分たちが、子どもたちにと豊かな関わりを持てたのか、子どもたちが、どういう気持ちだったのか、今、彼らのその後と本音を聞きたいと思っています。
ところで、私自身は、外から地域活動に入った大学出立ての20代の女性で、地域のコリアンの中に入っていった存在です。運動としても、地域のやり方に従って、いっしょにやることして信頼をえていくという方針でした。自分なりには一生懸命だったし、子どもの保護者にもよくしてもらいました。一方、地域でのつきあいの文化は、男女の役割分担もはっきりしていて、それを受けて入れて、入っていくことを求められました。私はまず冠婚葬祭の時の料理の準備が苦痛でした。何十人、何百人もの料理を、地域のおかあちゃんたちは、当然のように作るんです。私も含めて女だからそれを手伝うことを当たり前のように求められる。私は料理が得意ではなくて、しかもキムチを含めた辛いコリアン料理が苦手だったのです。
「ジェンダー」も「エンパワメント」も知らない時代でした。
4、国際人権基準と地域運動の成果がつながる
また20代は、日本社会で外国人の人権が劇的に向上する時代と重なり、その変化の真っただ中に参加したという得難い経験をしました。
1979年に2つの国際人権規約が締結され、続いて80年代以降、難民条約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約…が次つぎ日本に受け入れられていきます。日本国内での具体的な人権の課題を求める運動が、国際諸条約の批准運動とつながる形で進んでいきました。そうした国際的合意文書が「武器」となって、法や制度、行政のスタンスが変わり、学校の現場にもプラスに作用していく。自分たちの運動が変えたのだという実感は、勇気と自分の存在に対する肯定につながりました。「住まわせてもらっている」のではなく「同じ価値を持った人間なのだ。合理的な説明のできない区別は差別だ」という主張ができるようになったのです。
もちろん一人で声を上げられるはずもなく、小さくても同じ目標を持つ集団をつくることができたから成しえたことです。またそのグループは、他のもっと大きなグループの支援を得たからこそ、マスメディアに取り上げられるような成果に結びつきました。一方で、組織を作りあげている文化について、これでいいのかと疑問に思うこともありました。特定の組織ということではなく、一人ひとりが心地よく「参加」し、相互の多様性を認める、しかし必要なときには固くつながるというような組織文化が社会全体で十分に育っていないと思います。「参加」は、いろんな領域で未だ達成できていない私の課題のキーワードです。
5、「そういう存在であること」にこだわる
結婚して、子どもが生まれて、名前をつけようとした時、コリアン的な名まえがわからない。自分の中に「朝鮮文化」がほとんどないことに気づきました。大学で教養としての朝鮮文化を学んだのですが、文字の上の情報と生活のにおいは別物ですね。
最近、ソウルの遠い親戚を訪ねたときのことです。5歳くらいまで日本にいて、私の母とも一緒に遊んだが記憶がある人です。情厚く私に接してくれるのですが、息子のお嫁さんたちに「この人たちは日本人だから、今日の料理はいつものように辛くしたらだめ」と言っているのが聞こえました。同行していた母に、なんと言っているか通訳しながら、思わず苦笑です。親戚だけど彼らから見たら、わたしたちはもう日本の人なのだなと。1980年代、日本の運動の中では、「わたしたちは日本人じゃない。それを認めてほしい」ときりきりしながら言っていたのにね。
話せば長いですが、私は、日本でも韓国でもそこに住むマジョリティが想定しているどちらの側でもない、「そういう存在」であることにこだわって発信し続けたいです。なぜこだわるのか?という原点は、「それが理由で排除された」からです。次の若い世代のコリアンには私のような苦い思春期を味わうのではなくに、もっとのびのびと生きることができればいいなあと思います。そして「希望」を伝えたいですが、それは、過去をないことにすることからは生まれない。親たちの世代がどんな社会を生きてきたのか、そこから課題をみつけ、その答えを探すことから未来は拓くはずだと思っています。
6、国際的に共通理解されている人権というものがあるのだ
ヒューライツ大阪の正式名称は、一般財団法人アジア・太平洋人権情報センターです。気がつけば20年近くここで働いています。このセンターの設立の経緯や組織の情報はウェブサイトにアップしています。2008年度までは大阪府・大阪市・堺市から補助金を含めた支援を受けていました。
人権というテーマの性質上、センターの事業は、人権NGOや人権運動と関係なく進めることはできませんが、ここは純粋な運動団体ではありません。私はNGOや運動団体と行政、あるいはNGOと研究者との間にあって、それぞれのセクターをつなぐ役割を果たしたり、協働の事業を取り組んだりするポジションにあると思っています。
ヒューライツ大阪の事業を通じて、また新たな世界との出会いもありました。それは、「国際人権基準」という世界です。国際的に共通理解されている人権の全体像が把握でき、やっと人権とは何かについて私の胸にストンと落ちました。そしてそれは法律を専門にしている人たちから学びました。弁護士、国際人権法の研究者、あるいは国境を越えてテーマで人権活動をしている人たちでした。お恥ずかしい話ですが、人権は「人間の権利」だということにしみじみ納得しました。そして「権利」が、時には、人権教育を推進しているという教員にも嫌われている単語だと気付いたのもヒューライツ大阪に来てからでした。
「自由権」や「社会権」の確立の歴史、まず人権を保障する義務を負っているのは誰か、人権に関する条約とは何か…大学で法律を勉強している人たちには、世界の常識であったかもしれませんが、私にとっては、「そんな重要で基本的なこと、学校で早く教えてよ」でした。それまで、わたし自身は、私人間の差別事象への関心の比重が高かったのですが、逆に、人権を見渡す広い視野から、私人の間の差別事象を整理することの大事さがわかったのです。
でも法律家の人たちは、総じて人権教育には関心が薄いように思います。また、かつての私は、専門知識は、弁護士や研究者にお願いしますという態度で、人権に関する条約の条文も正面から読もうとしませんでした。確かに、法律用語は難解だし、日本語に訳された人権文書も読み進む気になれない。でも本来、一人ひとりが人権を学ぶ権利を持っているはずだし、その知識を本当に自分のものにしなければいけませんね。それぞれの人生にかかわる内容を含んでいるのだから。
人権の核心部分を理解することと、一人ひとりのエンパワメントを十分につなぐことができていないのは、私たち人権教育を実践している人たちの力不足と自覚不足だと思います。ヒューライツ大阪で働きだして、まもなく「参加型学習」という言葉を知り、それを日本で実践しようとしている教員グループとまず出会いました。ERICの出版した本やファシリテーターとしての角田尚子さんと出会ったのもこの頃です。ものの見方、伝え方を考えるのに随分いいショックを受けました。伝えたいのに、うまく伝わらない「国際的に共通理解されている人権」。人権への理解を深め、支援者を増やすためにどんな学びの場が有効なのか…模索が続いています。
# by ead2011 | 2012-05-15 14:53 | Trackback | Comments(0)
