埼玉県平和委員会 事務局長 二橋元長さん

埼玉県平和委員会 事務局長 二橋元長さん


教育は、人の可能性を引き出す、伸びるのをサポートするというようなものだ。上から教えるものでも、慣らすもの、訓練するものではない。そういう側面があるとしても、それが一義ではない。それがわたしの考え方です。

しかし、教育がどうあるべきかについて、まず、国民的コンセンサスがないのではないか。いま、社会を見ると、上になびきやすい傾向を教育が育てているのではないか。従わない場合に体罰を使うことも容認する、儀式化にも従順。

それはわたしたちの共有する土壌なのではないかと思う。というのも、平和や人権を標榜する団体においても、共通した学習方法が見られるからだ。有名なえらい人を呼んできて講演会をやって、一丁上がりというような啓発をやっている。ゼミや自学など、主体的学びを身につける、実践するものが皆無なわけではないが、少ないだろう。

そもそも労働組合は「民主主義の学校」と言われた存在だ。しかし、組織のあり方、運営の方法などを見た場合、そうと言いきれるのか。もちろん、努力しているところもある。しかし、組織の中に「通達」「支持」「動員」などがまかり通っているのではないか。

民主主義の根幹は、個の確立=主権者としての個人を育てることだ。そのためには風土そのものの変革をしていくこと。それを対置していく側の努力不足だと言える。社会や文化の持つ土壌や風土の影響から免れていない。提示しなければならないのに、替わるモデルが見いだせていない。

戦後まもなくをふりかえってみると、「青空学級」などの学びの場があった。それが消えていき、公民館や隣保館、女性センターなど、運動系のセンターでの学びが生まれ、それだけが残っていった。青年館、勤労会館、部落、障害者センターなどだ。

権力の側は、そのような民衆が怖かったのではないだろうか。民衆の側の努力はあったのだが、権力からの攻撃の元、弱体化していった。根本的には「教育とは何か?」ということについて、民主勢力の中でもコンセンサスが作りきれなかった。力不足だ。

学んだら動く、それは当たり前のことだ。学びと行動の両輪があって初めて社会教育だろう。それは生きる知恵であり、生きていく上で、自らの解放につながる。

いまは、学校教育も含めて、受動的な能力が増えるばかりの学習になっている。そこで強調されるのは、個人の達成主義であり、自己責任だ。権力の言うこと、体制側になびくことが、正否を左右する。そのような一元化された価値観の中で、成功と排除が生まれている。

一握りの人しか成功できないヒエラルキーなのだが、失敗した人も、序列化の中で「まだ、自分は良い方だ」と無力感と孤立感を抱きながらも、安心感も味わっているというようなところだろう。「まだ、まし」が心のよりどころになっている。人を輪切りにして、支配する、江戸時代の士農工商にも通じるやり方だ。部落差別の心性そのものだ。

このような構造では、より弱いものに暴力のベクトルがむく。それがいじめの構造だ。

自己責任・自立自助というが、「雇用されうる能力」「上手に働く能力」「重用される能力」だけが教え込まれ、教え込まれないものは「負ける」イコール排除される。

分断と孤立、関係の破壊。上昇志向の努力と、落ちたものに対する蔑視と落ちる恐怖によって支配されている。

戦前は、戦争という巨大な暴力の前に、「いじめ」がめだたなかっただけ。昔からある。昔は差別があからさまだったし。

教育は解放の道だったはず。戦後一瞬、そうだった。マスで教える、学ぶだけではなく、自分でも学ぶ、学びあう学習。主体は自分たち。主権者としてしあわせになる。豊かになるために、学ぶ。企業や国のためではなく。

「なぜ学ぶのか」科学技術や文化、経済は人が幸せになるためのものだ。しかし、「幸せ」のイメージがいまとても貧困になっている。安定した雇用、官僚、大企業で働くことが幸せ。体制側であることが幸せと教え込まれている。自ら主体となる学びは、「教え込まれる教育」では獲得できない。

これから取り組むべきことは、津々浦々で、主体となる学びを展開していくことだろう。解放の知恵を学ぶことだ。

政治と生活は一体なのだから、よりよい生活を考えることは、政治を考えるになるはずだ。

自分自身の実践としては「戦争展」をやっている。今年で30回目だ。出版、講演会、映画、スライドなど、多様なメディアを通した学びの方法論が、戦争体験を伝えるために、工夫されていた。しかし、もっと「からだを通して伝えられる方法が欲しかった。それが戦争展だ。展示という空間。目や耳や、疑似体験、写真や体験者の話しを通して学ぶ場にしてこれている。

若い人も来てくれているので、世代間で学びあうことができている。

しかし、戦争体験者は年々少なくなる。伝えてと受け手の間をつなぐ人、バトンランナーが必要になってきている。

語り継ぎ部。

いま、彼らの学習と教育をどうするかが課題だ。伝えてから「受け止めたあなた」が、何を伝えるか、あなたなりの想いを語ることが大切。心根。

戦争体験で伝えたいことは、「大変だったねぇ」ではなく、どう平和を作っていくか。それを自分自身の想いとしてどう語れるか。この先、いろいろな議論をし、学びながら、すすめていきたい。

とはいえ、どの団体でも平和についての学びは大事と言いながら、日々の活動の中では後回しになっていく。緊急の課題、権力の側の新たな動きへの対応などが優先されてしまう。ふだんの努力こそが大事なのに。

1970年代までは「要求していく運動」にリアリティがあった。攻めの運動だ。経済要求、生理的要求、生活的な要求は、リアルだ。「ポストの数ほど保育園を」など、スローガン、獲得目標も明確だった。

80年代以降は、支配の側が「提案」してくることに対して、「◯◯を守れ」「◯◯反対」という運動になってしまった。中曽根首相を境に、攻守が変わった気がしている。それまで獲得してきたサービスが、民間委託になり、予算をけずられ、右傾化してきている。

労働者の地位の要求が満たされ、文化的水準を高めたいという要求、そして普遍的な人権や平和を実現しようという要求へと、高まってきているはずなのだが、切羽詰まった要求から、より自覚的な、学びの結果のような要求へと段階があったのではないか。それは一律にはすすまなかった。「喰える賃金」「部長いばるな」などの運動から、人間としての質の前進とともに、運動の質も変化せざるをえない。しかし、果たして、いま「人間らしく喰えているか?」ということも問い直した方がよいように思う。

「戦うこと、そのものが悪である」抵抗権や団交権をイデオロギーとして「悪」だというイメージ操作にもはまっている。日本全体が革新列島だった時があるのだ。その牙城であった国労、日教組、公務員組合などが攻撃された。

青空学級はもうない。そういう場を作るしかない。あんな風にやろうよ、いろいろなところで。大人も子どもも、一緒に学ぼう。四世代討論ができるように。

教員一人ひとりはがんばっている。そういう個人とつながりあっていくことだろう。

戦争展があり、常設展のコラボで年に二回「ピースカレッジ」を実践している。しかし、それを実践している担い手が弱い。「学びは力・継続は力・数は力」といいながら、実際には教え込み、惰性、動員に陥っている。スカスカ。変えていかないと。そのためには後継者を育てることだが、目先の忙しさに逃げて「思想的その日暮らし」に陥っている。持続可能なと言いながら、先細り。

平和委員会は、縦線の労働組合と異なり、下から作っている。それは現場に課題があるからだ。地域の支部をつなぐ、ぶどうのふさ、クラスター型のような組織だ。中央主導の組織の場合、事務局は、上から言われたことをすべてこなす「ジョウロのネック」にあたるが、房型ポトムアップの事務局は、お互いを結びつけている茎のようなものだ。平和の課題は、現場にあるのだけれど、戦う相手は国であったり、米国であったりする。だから、連帯して全国組織を作っている。

所沢基地問題、騒音、基地被害、平和資料館の館長問題、から、歴史教育や原発の課題まで、幅広い。問題のねっこはつながっているから、連帯を依頼されたら、協力するが、現場の課題を扱うことが根っこにある。

教育は、一人ひとりの可能性を引き出すこと。そのためには一人ひとりを大切にする。
上からの押しつけや、社会の規律が絶対視され、守らせることを優先されたり、個に対する柔軟性のないやり方は、ふさわしくない。

わたしたちの側も、自覚的な主体的な学びと学びあいの場を、作り出していく必要がある。自ら学び取っていく学びの場を。


【ふとした疑問 もうちょっと考え続けるために】

二橋さんが「教員の側から、国民に教育のあるべきビジョンを共に考えようというアピールや訴えはあったのか?」と質問されました。どんな動きがあったのかなあ。

これも、今後のテーマですね。
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# by ead2011 | 2013-01-30 12:34 | 教育的アクティビズム

インタビューへの思い 

李福美さんの、インタビューへの思いです。言語化するって大切ですね。

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★今後のインタビュー予定★
・6月9日(土)10:00~ 森 実さん、at大阪教育大学天王寺キャンパス西館第一講義室(畑・三原・泉)
・6月23日(土)14:00~、北川知子さん(解放教育研究所にかかわっていた人)、at八尾市人権協会(近鉄八尾)(李ぽんみ(佐々木))
・6月23日(土)14:00~、梅本直己さん(部落解放同盟安中支部)、at八尾市人権協会(近鉄八尾)(李ぽんみ (佐々木))
・7月6日(金)19:00~、平野智之さん(府立松原高校)、at大阪NPOプラザ
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栗本さん、ありがとうございます。添付のファイルはわかっていて、何度も読んで、
これで、インタビューだなと思うのですが。TEST一日目に参加できてなくて、
ツールとシークエンスのところで戸惑っています。インタビューだけでなく、何か
ツールを使用しなくてはという感じになってます。いろいろ考えて年表かなあ。みな
さんは、キーパーソンインタビューの時、どんなツールを使ったのか、ドロップボッ
クスを見て参考にとおもったのですが、さがせてません。あんまり気にしなくていい
のかあな。私がついていけてないのかなあ。

今の私の思いは、
解放教育を受けてきただろう人にとって、どうだったのか?特に、八尾中事件の後の
八尾の解放教育で、地元で教育を受けてきた当事者がどう思っているのか?また、解
放教育と無縁だったところで学んできた人が、解放教育にふれ、解放運動にかかわる
ようになったその時に、教育はどういう影響をあたえたのか?
解放教育は
1. 教育はエリートのためのものではない。すべての人々、学習者のためのもの
なのだ。
2. 教育内容、カリキュラムは、専門家育成のためや学問や科学の発展のためで
はなく、学習者の関心や必要、発達課題に沿って組まれるべきものだ。
3. 教育方法は、銀行型、一方的な伝達ではなく、考えることを教える方法で行
なわれるべきだ。
4. 「成長の限界」は、これまでのやり方が失敗していることを示している。問
題解決型、未来志向の教育が必要だ。
というものを持っているものだと、思っています。
なぜ、それが、普遍化できなかったのか?を考えることができるインタビューができ
たらなあと思っています。

そんな話を被差別部落出身者の人ときょう話していたら、「部落解放運動は、例えば
奨学金も部落だけの要求ではなかった。学びたくても学べない人が、学べるための奨
学金制度がいるのだと訴えた。権力の側は、わかりました、それでも、すぐに全体に
することは無理だから、まずは一番困っている部落に支給しましょう。毒まんじゅう
という声もあったが、でも、それは部落にとっては、死活問題だった。悩ましいとこ
ろや。」というような話をされました。

「分断」という言葉が浮かんでいます。これから、私たちが分断されないために何が
課題なのかみえたらなあと思ったり。

ある意味私は中の人だったから、解放運動にもいら立ちがあり、否定的になることも
あるので、そこは、意識しながら、インタビューできたらなあと思っています。

つらつら、今の私の問題意識書いてしまいました。
うまく言えてるかわからないのですが、へたくそながら、言葉にしました。

とにかく、こんな問題意識で明日、行きます。
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# by ead2011 | 2012-06-23 07:22 | TEST12教育力向上

金城馨さん インタビュー

金城馨さん、関西沖縄文庫主宰

インタビュー日時: 2012年4月29日10時から12時
インタビュア: いずみ、かくた、くりとも(記録)
最終修正: 2012年6月4日
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失敗を語ることが総括なのか。明らかにすることは必要だが、正しいことを主張するだけでは総括にならないし、不安を感じる。人権とは、正しいことを言わないことなのだと最近思う。「正しい」ことを主張しないと運動は前に進まないと思われているが、「正しい」ことには危険な匂いがつきまとう。排除するとか、画一化するとか。
政治主義や戦いは前へ行こうとする。しかし、前に行こうとすると中身は思想的に弱体化する。
小中高の中での変化をふりかえると、1969年から72年のまちがいの実践を思い出す。本名宣言、「語る」なのり?活動だったのですが。
そのころの解放教育の指導的役割を果たしていたのは、教師でした。教育改革を生徒主導で実践しようとしていたのではないか。「教師を焼くほのお」。運動をはじめた生徒たちは、ラディカルだった。尼崎北高校は進学校だった。自主ゼミで部落問題研究会を行っていた。単位も取れるゼミとして認められていた。2つのゼミをとれて、もうひとつは進学用のゼミをしていた。

ところが、それらの動きを抑える傾向もあって、教師がとばされたり、教育委員会直轄の教頭が送り込まれたりした。私服も校内に入ってくることもあった。ものわかりのよい教頭で、直接にストレートな圧力をかけたりせず、ものわかりのよさそうなポーズをとっていた。「きみたちの言うことももっともだよ」とか。ハマケンと生徒たちがあだ名で呼ぶようになるほど親しく近づき、譲るところは譲るというふうに懐柔してきた。ものわかりのよい態度で、親しくなる、そうすると対立的でなくなる。労務管理的。自分にとっては早い段階での体験で、その後に影響している。役にたった。
今年の6月にも21期生から同窓会の案内がきている。教師の中には亡くなっている人もいる。月刊『むすぶ』の2010年10月号に掲載された私の講演録にも書いてあるが、高校時代の担任には「疑うこと」を教えられた。貴重な体験だ。
その後は川西の解放共闘の代表をしていて、地域の活動の中心だった。この担任に導かれて運動をしたわけだが、それが常に悪いわけではないと思う。自分たちが主体的に突っ込んだのだから。
自主ゼミでは高橋伸一さんだとか、歴史学や社会学について、進歩的な学者を招いて日本社会の矛盾を明らかにしていこうとしたが、ピンとこなかった。それで城内高校の定時制高校の生徒の話しを聞こうということになった。自主ゼミをやっているとはいえ、こちらは進学校で、まだ10代で、ぼっちゃんぽいところがある。遭いに行った相手は、おっさんに見えた。「いま、パチンコ行ってるから」と遅刻してきたり。
彼らの環境が違った。そこで、自分の立場を追求された。「おまえは、何者なのだ」と。沖縄と向き合うべきではないかと。差別から逃げる、隠していた自分が、逃げれなくなった。なぜ部落問題研究会をやるのか。自分が沖縄と向き合わず、そのことで、差別している自分の差別性を薄めるために、やっていた。黒人解放運動に共感する白人が、自分は他の白人とは違うと思いたがるように。水平社宣言のような自らを誇りうる生き方の選択は運動によってしかできなかっただろうと思う。
自分の生まれ育った沖縄人集落の貧しさ、生産活動はブタを飼育しするしかなく、そういう環境脱出したかった自分は進学校に進み脱出できると思っていた。
沖縄であることの不安。それを抱えながら、自分の運動をやっていないことを見抜かれ、逃げ切れなくなった。そうとどめをさされたのは、大城と名乗る在日朝鮮人の定時制高校生だった。「おまえは沖縄をやれ」といわれた。

教科書、国家、権力、体制に逃げ込もうとして、システムに乗っかろうとしていた自分。解放教育を実践している教師につきつけられて、優柔不断な自分が見える。沖縄という不安。自分が差別しているという不安。親は、どう思っていたか、確認はしていないが、沖縄人をばかにするなということは言っていたかなあ。
差別は常に共犯化している。自分の中の差別に向き合わない方法はいくつもある。運動にかかわることで、自分の差別に向き合わないこと。自分はそうだった。あなたはどうなの? 疑いをもち、批判することが大切。否定ではない。批判に返答してくればそれでいいが、返答はされずに、疑問を投げかけた自分は「連帯を拒否したと言われた。
沖縄と連帯しようと、押し付けてくる。連帯の中に疑いをもつ。いっしょにやることは重要だと思っていたが、1995年の少女暴行事件の時、自分としてはかなり覚悟をきめて「これまでの運動は連帯ではなかったのではないか」と問いかけたが、そのことを言い始めたら、「連帯拒否者」というレッテルを貼られた。
連帯は、哲学的なものだ。政治的に使うべきではないと思う。しかし、政治的には、そのような疑問は、排除される。連帯するのかしないのかというような踏み絵に使われる。疑問を追究する人をつぶし、議論できないようにする。
不安から逃れる方法を求めて、不安の中でしか存在し得なかった。
映画「橋のない川」の裁判を傍聴した後、自分たちの先輩からアピールするよう促されたが、自分は疑問を持っているのでぼそぼそとしかしゃべれない。「たたかうんだ!」と盛り上げ、ひっぱっていくにはどう言えば受けるか、ことばは思いつく。しかし、「それは自分自身にウソをついていないか?と思い、そういう表現はできなかった。優柔不断性。ゆれ動く。
政治的な活動家は、結果が大事。それは自分にはできない。
突破して行くためには運動として力を結集することが必要。しかし、そうすると思想的には退化する。戦術としてひとつの声にしていかないと、大きな権力に立ち向かえない。しかし自分たちの足元を固めるためには、議論することが必要。政治的前進は足元がぐらつく。自分たちの弱さを確認すること。連帯して力を高めることは、自分たちのポジションを明らかにする政治的ツールではあるが、自分たちの弱さになる。自分を鍛えないで政治が先行してはあぶない。政治的な運動の中で、自分を鍛えるのでなければ、どこで、自分を鍛えるのか。
自分を鍛えるのではなくて、政治的な結果、革命をめざして、プロレタリアートの抑圧からの解放を目指して、その後の社会が維持できるのか? 政治的には成功しても、それは維持できるのか? 「正しく」続いていけるのか? 常に間違いはおかすものだ。起きたまちがいが、どういうまちがいかをわかりやすく問う機会が必要。でもそうしていると前にすすみにくい。
間違いを「とりあえず置いておく」ことにして前に進むと、次の世代は、まちがいであることすら、意識の中に持てていない。最初の世代が、「これはまずいんじゃないか」と思ったそのことが、伝わらない。

運動の中では、考える機会にはめぐまれている。しかし、運動に入ることで「自分は考えている」「なにも問題意識なく考えていない人とは違う」となってしまう。そうではなく、考え続けることが難しい。

教育現場は「正しい」ことが好き。それが具体的に何なのかを考え、探り続けるしかない。正しいことを教えようとする教育は、疑問を持ったものを排除する環境をつくりやすいだろう。正しさを決めるのはマジョリティの論理による。力のある側がそれを決めている。
ものを少し考える習慣は多くの人にあるだろう。ただ「深く考える」という言葉を使った瞬間、ものを考えなくなる危険がある。それなら「もうちょっと考える」ことならできるのではないか? 「深く考える」はとてもできないと思うかもしれないが、「もうちょっと考える」は拒絶しにくい。もうちょっと考えたら、大きな間違いはしない。もうちょっと考えるという行為によって、差別は減るはずだと思う。
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# by ead2011 | 2012-06-04 10:05 | TEST12教育力向上

朴君愛さん、ヒューライツ大阪 職員

朴君愛さん、ヒューライツ大阪 職員
2012年4月29日 
18:10-19:00

1.差別体験が、人権運動への道へ

これまで民間会社に勤めた経験がありません。大学を卒業し、大阪府八尾市にあるトッカビ子ども会(当時は在日コリアンの子どもたちを対象にした地域活動。現在では、ベトナム、中国をはじめ多様な外国をルーツに持つ子どもたちに対象が広がっている)の専従スタッフになり、民族差別撤廃をめざす市民団体のスタッフを含めて約10年間かかわりました。その後1994年にヒューライツ大阪が開設されたとき、職員として働きはじめ、現在に至っています。
大阪市で生まれ、小学4年で東大阪市に引っ越しましたが、わたしの小・中学校時代―1960年代から70年代前半―は、在日コリアンにたいする差別は、し放題・され放題だったという記憶が強くあります。私には、それを止めない先生も一緒になって差別の側に回っていると感じられました。
私は、在日三世ですが、親が日本名で、とにかく「ばれないように」エネルギーを使って暮らしていました。東大阪市の西南部ですから地域事情からすると同じ立場の子が結構いたはずなのに、それぞれが孤立していたように思います。学校にも地域にも、コリアンであることで安心できる場はありませんでした。
もちろん楽しい時間もあったし、友人と言える人もいたけれど、いつしか小・中学校の同窓会には絶対行かないと心に決めていました。あれから40年以上、やっと今、同窓生にもあってあの頃の話や今の気持ちを話してもいいかと思いはじめています。私をコリアンと知らずに目の前で差別したかつての同級生は、気軽に連絡をしてきて「会いたいね」と言ってきました。
心の折り合いをつけることができたのは、18歳以降、それまでとは別世界の日本人と出会うことができ、人間の価値や生き方を学ぶ豊かな時間があったからだと思います。それは人権運動を通じてでした。
小・中学の授業で憲法について学んだ時、「国民の権利及び義務と」という表現に、排除されている自分たちを一層感じました。立憲主義がどういう意味を持つとか、人権の最前線で起こっていることなどの情報は持ちえず、教室での民族差別発言があり、当時、国民健康保険も国民年金も公営住宅にも入れなかった自分たちの存在があり、憲法について教えられた時間は、ある意味「人権」を学ぶこととは反対の効果を持つものでした。「人権」という言葉をはじめて文字で読んだにもかかわらず。もちろんなぜ自分たちがここにいるのか、在日コリアンの歴史についても大学に入るまで知らないのと同然でした。

2、反差別教育と出会って勇気百倍

女性のいとこたちの中でははじめて大学に進学する機会に恵まれ、そこで本名でやっていくふんぎりがつきました。本名を名乗っている同世代の在日コリアンにも出会いました。韓国の軍事政権下での在日韓国人の政治犯救援運動がもりあがっていた時代でした。様々な社会の課題に取り組む運動の空気が大学内にもありました。大学4年生の時に、大阪市内の同和地区にある公立中学校の課外活動で民族講師をする機会がありました。地元の部落解放運動や教員などの運動の成果で、被差別部落の子どもたちが集まる会とは別に、コリアンの子どもたちを対象にした集まりの会がありました。そこで予算が少し確保されていて、私に、引き継ぎで週1回放課後、学校での民族講師として声がかかったのです。
1979年頃と記憶していますが、その頃はその学校が一番荒れていた時期だったそうです。コリアンの子どもも相当荒れていました。そんな子どもたちをみて、はじめは「コリアンは悪いとか汚いとか言われてきたが、こういう子がいるから、私たち全体が差別されるんや」というような意識を持ちました。しかし、教員から親たちの人生を聞いたりするうちに、そういう生き方に追い込んだ社会の意識や行政のやり方を変えなければ、何も解決しないと思えるようになりました。差別の現実を変えることなしに、本人たちにだけ差別に負けるなとは言えないということです。その学校で子ども会に中心になってかかわっていた先生たちの言葉は、私の心にじわっと染みました。その頃から、「○○人だからわかりあえる」のではなく、一人ひとりの個人のあなたを尊敬し、あなたが好きと言えるようになってきました。
この民族講師の経験からはじまった反差別の教育活動のおかげで、私は、本名でくらしていけると思えたし、自分が一人ではないことを知りました。社会運動の評価をめぐっては、どの運動もプラスの側面もマイナスの側面もありますが、少なくとも大阪の「同和教育」、在日外国人教育、反差別教育の運動は、プラス、マイナスを合算すると私の人生にかなりプラスの方にポイントを積みました。この教育運動に出会わなかったら、自分のアイデンティティを隠し、自分の親にネガティヴな感情を持ち、日本人に対しては深い不信を持ち続けてくらしていたと思います。

3、「ジェンダー」も「エンパワメント」も知らない時代

10年の間、荒れた人生しか生きることができなかったコリアンとも知りあい、その子どもたちとも身近になりました。家庭環境が複雑な子どもたちも少なくなかったです。学校から帰ると逃げていく子どもたちに対し、「同じ在日コリアンなのだから、子ども会活動に参加しよう」と、今思うと結構しつこく誘いました。果たして自分たちが、子どもたちにと豊かな関わりを持てたのか、子どもたちが、どういう気持ちだったのか、今、彼らのその後と本音を聞きたいと思っています。
ところで、私自身は、外から地域活動に入った大学出立ての20代の女性で、地域のコリアンの中に入っていった存在です。運動としても、地域のやり方に従って、いっしょにやることして信頼をえていくという方針でした。自分なりには一生懸命だったし、子どもの保護者にもよくしてもらいました。一方、地域でのつきあいの文化は、男女の役割分担もはっきりしていて、それを受けて入れて、入っていくことを求められました。私はまず冠婚葬祭の時の料理の準備が苦痛でした。何十人、何百人もの料理を、地域のおかあちゃんたちは、当然のように作るんです。私も含めて女だからそれを手伝うことを当たり前のように求められる。私は料理が得意ではなくて、しかもキムチを含めた辛いコリアン料理が苦手だったのです。
「ジェンダー」も「エンパワメント」も知らない時代でした。

4、国際人権基準と地域運動の成果がつながる

 また20代は、日本社会で外国人の人権が劇的に向上する時代と重なり、その変化の真っただ中に参加したという得難い経験をしました。
1979年に2つの国際人権規約が締結され、続いて80年代以降、難民条約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約…が次つぎ日本に受け入れられていきます。日本国内での具体的な人権の課題を求める運動が、国際諸条約の批准運動とつながる形で進んでいきました。そうした国際的合意文書が「武器」となって、法や制度、行政のスタンスが変わり、学校の現場にもプラスに作用していく。自分たちの運動が変えたのだという実感は、勇気と自分の存在に対する肯定につながりました。「住まわせてもらっている」のではなく「同じ価値を持った人間なのだ。合理的な説明のできない区別は差別だ」という主張ができるようになったのです。
もちろん一人で声を上げられるはずもなく、小さくても同じ目標を持つ集団をつくることができたから成しえたことです。またそのグループは、他のもっと大きなグループの支援を得たからこそ、マスメディアに取り上げられるような成果に結びつきました。一方で、組織を作りあげている文化について、これでいいのかと疑問に思うこともありました。特定の組織ということではなく、一人ひとりが心地よく「参加」し、相互の多様性を認める、しかし必要なときには固くつながるというような組織文化が社会全体で十分に育っていないと思います。「参加」は、いろんな領域で未だ達成できていない私の課題のキーワードです。

5、「そういう存在であること」にこだわる

結婚して、子どもが生まれて、名前をつけようとした時、コリアン的な名まえがわからない。自分の中に「朝鮮文化」がほとんどないことに気づきました。大学で教養としての朝鮮文化を学んだのですが、文字の上の情報と生活のにおいは別物ですね。
最近、ソウルの遠い親戚を訪ねたときのことです。5歳くらいまで日本にいて、私の母とも一緒に遊んだが記憶がある人です。情厚く私に接してくれるのですが、息子のお嫁さんたちに「この人たちは日本人だから、今日の料理はいつものように辛くしたらだめ」と言っているのが聞こえました。同行していた母に、なんと言っているか通訳しながら、思わず苦笑です。親戚だけど彼らから見たら、わたしたちはもう日本の人なのだなと。1980年代、日本の運動の中では、「わたしたちは日本人じゃない。それを認めてほしい」ときりきりしながら言っていたのにね。
話せば長いですが、私は、日本でも韓国でもそこに住むマジョリティが想定しているどちらの側でもない、「そういう存在」であることにこだわって発信し続けたいです。なぜこだわるのか?という原点は、「それが理由で排除された」からです。次の若い世代のコリアンには私のような苦い思春期を味わうのではなくに、もっとのびのびと生きることができればいいなあと思います。そして「希望」を伝えたいですが、それは、過去をないことにすることからは生まれない。親たちの世代がどんな社会を生きてきたのか、そこから課題をみつけ、その答えを探すことから未来は拓くはずだと思っています。

6、国際的に共通理解されている人権というものがあるのだ

ヒューライツ大阪の正式名称は、一般財団法人アジア・太平洋人権情報センターです。気がつけば20年近くここで働いています。このセンターの設立の経緯や組織の情報はウェブサイトにアップしています。2008年度までは大阪府・大阪市・堺市から補助金を含めた支援を受けていました。
人権というテーマの性質上、センターの事業は、人権NGOや人権運動と関係なく進めることはできませんが、ここは純粋な運動団体ではありません。私はNGOや運動団体と行政、あるいはNGOと研究者との間にあって、それぞれのセクターをつなぐ役割を果たしたり、協働の事業を取り組んだりするポジションにあると思っています。
ヒューライツ大阪の事業を通じて、また新たな世界との出会いもありました。それは、「国際人権基準」という世界です。国際的に共通理解されている人権の全体像が把握でき、やっと人権とは何かについて私の胸にストンと落ちました。そしてそれは法律を専門にしている人たちから学びました。弁護士、国際人権法の研究者、あるいは国境を越えてテーマで人権活動をしている人たちでした。お恥ずかしい話ですが、人権は「人間の権利」だということにしみじみ納得しました。そして「権利」が、時には、人権教育を推進しているという教員にも嫌われている単語だと気付いたのもヒューライツ大阪に来てからでした。
「自由権」や「社会権」の確立の歴史、まず人権を保障する義務を負っているのは誰か、人権に関する条約とは何か…大学で法律を勉強している人たちには、世界の常識であったかもしれませんが、私にとっては、「そんな重要で基本的なこと、学校で早く教えてよ」でした。それまで、わたし自身は、私人間の差別事象への関心の比重が高かったのですが、逆に、人権を見渡す広い視野から、私人の間の差別事象を整理することの大事さがわかったのです。
でも法律家の人たちは、総じて人権教育には関心が薄いように思います。また、かつての私は、専門知識は、弁護士や研究者にお願いしますという態度で、人権に関する条約の条文も正面から読もうとしませんでした。確かに、法律用語は難解だし、日本語に訳された人権文書も読み進む気になれない。でも本来、一人ひとりが人権を学ぶ権利を持っているはずだし、その知識を本当に自分のものにしなければいけませんね。それぞれの人生にかかわる内容を含んでいるのだから。
人権の核心部分を理解することと、一人ひとりのエンパワメントを十分につなぐことができていないのは、私たち人権教育を実践している人たちの力不足と自覚不足だと思います。ヒューライツ大阪で働きだして、まもなく「参加型学習」という言葉を知り、それを日本で実践しようとしている教員グループとまず出会いました。ERICの出版した本やファシリテーターとしての角田尚子さんと出会ったのもこの頃です。ものの見方、伝え方を考えるのに随分いいショックを受けました。伝えたいのに、うまく伝わらない「国際的に共通理解されている人権」。人権への理解を深め、支援者を増やすためにどんな学びの場が有効なのか…模索が続いています。
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# by ead2011 | 2012-05-15 14:53 | 教育的アクティビズム

大野清子さん CAPセンター・ジャパン理事 CAPくれよん

CAPセンター・ジャパン理事 大野清子さん
2012年4月15日 インタビュー実施

1.CAPの活動について

CAPくれよんの会員は現在15人、そのうち常時活動できる人は9人です。
2004年に正式にCAPグループとして登録しました。1997年よりCAP青い空のメンバーとして活動していたのですが、埼玉県内に事務所がなければ、県事業など、受けにくい事情が生まれてきたため、埼玉県内に事務所を置くグループとしてCAPくれよんを設立しました。

*****設立までの経緯*****
1997年CAPスペシャリストとなる
1997年から1998年までCAPネットワーク埼玉に所属する。
(代表が神奈川県に転居したため、このグループからは退会する。)
1997年~2004年までCAP青い空に所属
(初期は二つのグループに所属)
青い空時代は関東でもグループが少なく、東京、埼玉を中心に、関東地域全体にワークショップに行っていた。
2004年4月CAPくれよん設立
青い空から3名と近隣グループから2名参加し5名で発足。
2004年9月の養成講座で6名が新たにメンバーとなる。
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CAPを始めるきっかけは、男女混合名簿を作る会の活動をしていた時に、CAPの養成講座の存在を知りました。森田ゆりさんがトレイナーの講座でした。「子どもの問題にも取り組まなければ」と友人3人を誘って、参加しました。講座では率先して恥をかいてでも学ぶんだという姿勢で、積極的に参加しました。後に、わたしがその時の講座のムードメーカーだったよと言われました。参加者は60名ほどもいたでしょうか。

そのころ、年間50万円もかけて「産業カウンセラー」の資格をとったりしていたので、CAPの講座が高いとはまったく感じませんでした。そのころの養成講座は3日間だけでしたし。

わたし自身の活動の根本的な関心は、女性の地位向上にあります。講座で、いじめのロールプレイを見ていた時、いじめに対して「いやだ」と子ども役の人が言った時、その人の身長が、すっと、高くなったように見えたのです。あ、これだ、男女平等を何万回言葉でいうより、このロールプレイは一度で平等の意味が分かる、と思いCAPを始めました。

わたしは埼玉県の川越市の中でも 農村部(田舎)で育ちました。子どもの頃、母に連れられて、隣りの家の結婚式の手伝いに行ったとき、北に面した台所で、女たちはまかないをして、南側の陽のあたる座敷では男たちがご祝儀の宴会をしているのを見て「変だ」と感じました。女の人たちにも不満がなかったわけではありません。ただ、それを「女の役割」という言葉に埋め込んで、自分たちを納得させていました。幼いわたしは「将来は北側なんだ。」と理解し「すごく嫌だ」と思ったことを今でもはっきり覚えています。
もう一つは、結婚すると姓が変わることです。女がつながりにくくなるシステムだなと感じてきました。連携や関係をたちますよね。あ、あの人、同級生かな?でも、名前が違うから、違うかも、と声をかけることができないかった時が、たくさんあります。いまのように便利になった時代でも、検索にもかからない。悔しいと思います。

息子は「お母さんの活動は先生にわかるように説明できない。めんどくさいから、専業主婦ということにした」とわたしが活動していることを学校では話しません。なかなか活動への社会の理解、家族の理解は難しいです。
ジェンダーの問題では、まわりからの影響も大きく、小学生のころ「家の財産て、長男が継ぐんだって。ぼくが、この家の財産を継ぐんだね」と突然言いはじめ、驚きました。「借金もあるけどいい?」と聞いたら「それならいらない」と即答でしたが。ジェンダーについて私の思いがどんなにあろうと、社会の影響のほうが大きいと、しみじみ感じた出来事でした。

こういう活動にリスクはつきものです。リスク覚悟でわたしはやっていますが、子どもの迷惑になることは避けたいという気持ちもあります。子どもにどこまで理解してもらえるか、ある程度の年齢になってわかってもらえればと思っています。親子関係の講演会を聞いた時、「子どもは女が育ててきた。(母親、乳母、ねえや)」養育者と同性の女の子は情緒が育ちやすいけど、異性である男の子は情緒が育ちにくい、というような話しを聞きました。どこか納得してしまいました。性別役割が強い社会、性別格差の強い社会における子育ては、いまも、課題だと感じています。

2.CAPの社会的、教育的効果について

CAPは社会変革だと思います。ワークショップの時に、全員の腑に落ちるようにと思って話すとくどくて、かえってわからん、となってしまいます。そこで、40人が受けて、5人の子どもたちに何かが残ってくれたらOKと思ってやっています。その子たちが日常でCAPを使ってくれたら、それでクラスの空気が変わり、クラスにCAPが定着していきます。
CAPスペシャリストの養成講座を受講した時に、森田さんがテーブルに腰をかけたことを衝撃をもって受け止めました。カルチャーショックでした。

いまの日本の社会は(きっと世界中)女性にとってとても生きにくい。しかし、違う世界がある。これぐらい違わなければ、かわらないのだと、感じました。
最初の頃は、性暴力とか、レイプとかいう言葉を学校の神聖な黒板に書かないでくれ、というような指摘すら受けたのですから。性暴力という言葉が、ひわいできたない、だから書くな。という論理なのですね。それから考えれば、変わりました。

学校が変わったかどうかは一概に言えません。校長先生の権限が大きいので、校長先生の影響は非常に強いと感じます。
その他としては、地域の子ども達のほとんどが同じ中学に行く地域では、クラスの中にいろいろな子がいるが、学校選択制や私立中学に行く子の多い地域では、高校のように、ある程度同じような子が多いと感じます。学校により、子ども達の状況がかなり違うので、単純に比較できないと思います。


それ以外にも、10年目、12年目の実践で、中学校の先生から見て、小学校時代にCAPを受けた学校の子どもは、いじめる子が少ない、相談する子が多い、とめに入る子の存在もあるというような違いを感じると言います。

40人という人数は確かにロールプレイや参加して討議するという活動には多いのですが、スタッフを6人派遣し、グループファシリテーションを多くするなどしてカバーしてきました。学級人数を減らす運動など、考えたことはなかったですね。
40人分の意見を板書する、言葉を学校によって変える、要員配置を工夫する、本当に自分たちの努力で、一つひとつの学校の状況に合わせてきました。
就学前は15名が限度ですから、1クラスを2つに分けて、実践したこともあります。30名、40名のところは、3つのわけてもらったりしたことも。
中学生でも15人ぐらいが、適切な人数ではないでしょうか。

とはいえ、実際に学級崩壊が起こっているところでは、ワークショップはできません。
安心できる関係、支配関係のないグループで伝えるのでなければ、CAPのメッセージは空論です。養護施設では、子どもの背景にあわせて、シナリオの言葉も、一つひとつ吟味して、使うようにしています。ことばや関係を大切にしたいと思います。30人を超える相手に対して言う言葉は、Broadcasting一方的な放送でしかないのではないでしょうか。

3.CAPと教育改革、これから

確かに40人が、CAPのような教育活動にふさわしい学級人数だとは思いませんでした。しかし、そのような教育運動を展開する余裕がCAPにはなかったのではないでしょうか。学校に入れてもらうというだけで、行政に働きかけたり、それ自体が運動です。

学校は授業内容の増加などで、CAPの実施は年々難しくなっています。
ただ、CAPは子どもたちに届けるだけでなく、同時におとなワークショップも実施しているので、たとえ1年に10人の参加であっても、10年続ければ、校区に100人は、CAPを知っているおとなが生まれる。それが変化につながっていくのではないか、と思います。それは、CAPが目指す、性暴力の被害者をせめない、暴力をゆるさない、体罰は使わないなどの風土です。

いまは、幼稚園や保育園などでもCAPプログラムを実施しています。子育てネットワークや、親子劇場とつながるとか、学校だけでなくつながる先も変化したり、増やして行ったりする必要があるでしょう。

デートDV等のプログラムはニーズが高いです。awareなども、ファシリテーター養成講座を開催しています。CAPと両方やっている人も多いと思います。それらのプログラムでは、研修用のビデオの活用などもすすんでいると思います。

プログラムの多様化とつながりの多様化、CAPグループもCAP以外の活動をプラスしていくところが増えるのではないでしょうか。
ここ10年が、CAPが生き残れるかどうか、大切な時だと思っています。
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# by ead2011 | 2012-04-19 11:55 | 教育的アクティビズム