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朴君愛さん、ヒューライツ大阪 職員

朴君愛さん、ヒューライツ大阪 職員
2012年4月29日 
18:10-19:00

1.差別体験が、人権運動への道へ

これまで民間会社に勤めた経験がありません。大学を卒業し、大阪府八尾市にあるトッカビ子ども会(当時は在日コリアンの子どもたちを対象にした地域活動。現在では、ベトナム、中国をはじめ多様な外国をルーツに持つ子どもたちに対象が広がっている)の専従スタッフになり、民族差別撤廃をめざす市民団体のスタッフを含めて約10年間かかわりました。その後1994年にヒューライツ大阪が開設されたとき、職員として働きはじめ、現在に至っています。
大阪市で生まれ、小学4年で東大阪市に引っ越しましたが、わたしの小・中学校時代―1960年代から70年代前半―は、在日コリアンにたいする差別は、し放題・され放題だったという記憶が強くあります。私には、それを止めない先生も一緒になって差別の側に回っていると感じられました。
私は、在日三世ですが、親が日本名で、とにかく「ばれないように」エネルギーを使って暮らしていました。東大阪市の西南部ですから地域事情からすると同じ立場の子が結構いたはずなのに、それぞれが孤立していたように思います。学校にも地域にも、コリアンであることで安心できる場はありませんでした。
もちろん楽しい時間もあったし、友人と言える人もいたけれど、いつしか小・中学校の同窓会には絶対行かないと心に決めていました。あれから40年以上、やっと今、同窓生にもあってあの頃の話や今の気持ちを話してもいいかと思いはじめています。私をコリアンと知らずに目の前で差別したかつての同級生は、気軽に連絡をしてきて「会いたいね」と言ってきました。
心の折り合いをつけることができたのは、18歳以降、それまでとは別世界の日本人と出会うことができ、人間の価値や生き方を学ぶ豊かな時間があったからだと思います。それは人権運動を通じてでした。
小・中学の授業で憲法について学んだ時、「国民の権利及び義務と」という表現に、排除されている自分たちを一層感じました。立憲主義がどういう意味を持つとか、人権の最前線で起こっていることなどの情報は持ちえず、教室での民族差別発言があり、当時、国民健康保険も国民年金も公営住宅にも入れなかった自分たちの存在があり、憲法について教えられた時間は、ある意味「人権」を学ぶこととは反対の効果を持つものでした。「人権」という言葉をはじめて文字で読んだにもかかわらず。もちろんなぜ自分たちがここにいるのか、在日コリアンの歴史についても大学に入るまで知らないのと同然でした。

2、反差別教育と出会って勇気百倍

女性のいとこたちの中でははじめて大学に進学する機会に恵まれ、そこで本名でやっていくふんぎりがつきました。本名を名乗っている同世代の在日コリアンにも出会いました。韓国の軍事政権下での在日韓国人の政治犯救援運動がもりあがっていた時代でした。様々な社会の課題に取り組む運動の空気が大学内にもありました。大学4年生の時に、大阪市内の同和地区にある公立中学校の課外活動で民族講師をする機会がありました。地元の部落解放運動や教員などの運動の成果で、被差別部落の子どもたちが集まる会とは別に、コリアンの子どもたちを対象にした集まりの会がありました。そこで予算が少し確保されていて、私に、引き継ぎで週1回放課後、学校での民族講師として声がかかったのです。
1979年頃と記憶していますが、その頃はその学校が一番荒れていた時期だったそうです。コリアンの子どもも相当荒れていました。そんな子どもたちをみて、はじめは「コリアンは悪いとか汚いとか言われてきたが、こういう子がいるから、私たち全体が差別されるんや」というような意識を持ちました。しかし、教員から親たちの人生を聞いたりするうちに、そういう生き方に追い込んだ社会の意識や行政のやり方を変えなければ、何も解決しないと思えるようになりました。差別の現実を変えることなしに、本人たちにだけ差別に負けるなとは言えないということです。その学校で子ども会に中心になってかかわっていた先生たちの言葉は、私の心にじわっと染みました。その頃から、「○○人だからわかりあえる」のではなく、一人ひとりの個人のあなたを尊敬し、あなたが好きと言えるようになってきました。
この民族講師の経験からはじまった反差別の教育活動のおかげで、私は、本名でくらしていけると思えたし、自分が一人ではないことを知りました。社会運動の評価をめぐっては、どの運動もプラスの側面もマイナスの側面もありますが、少なくとも大阪の「同和教育」、在日外国人教育、反差別教育の運動は、プラス、マイナスを合算すると私の人生にかなりプラスの方にポイントを積みました。この教育運動に出会わなかったら、自分のアイデンティティを隠し、自分の親にネガティヴな感情を持ち、日本人に対しては深い不信を持ち続けてくらしていたと思います。

3、「ジェンダー」も「エンパワメント」も知らない時代

10年の間、荒れた人生しか生きることができなかったコリアンとも知りあい、その子どもたちとも身近になりました。家庭環境が複雑な子どもたちも少なくなかったです。学校から帰ると逃げていく子どもたちに対し、「同じ在日コリアンなのだから、子ども会活動に参加しよう」と、今思うと結構しつこく誘いました。果たして自分たちが、子どもたちにと豊かな関わりを持てたのか、子どもたちが、どういう気持ちだったのか、今、彼らのその後と本音を聞きたいと思っています。
ところで、私自身は、外から地域活動に入った大学出立ての20代の女性で、地域のコリアンの中に入っていった存在です。運動としても、地域のやり方に従って、いっしょにやることして信頼をえていくという方針でした。自分なりには一生懸命だったし、子どもの保護者にもよくしてもらいました。一方、地域でのつきあいの文化は、男女の役割分担もはっきりしていて、それを受けて入れて、入っていくことを求められました。私はまず冠婚葬祭の時の料理の準備が苦痛でした。何十人、何百人もの料理を、地域のおかあちゃんたちは、当然のように作るんです。私も含めて女だからそれを手伝うことを当たり前のように求められる。私は料理が得意ではなくて、しかもキムチを含めた辛いコリアン料理が苦手だったのです。
「ジェンダー」も「エンパワメント」も知らない時代でした。

4、国際人権基準と地域運動の成果がつながる

 また20代は、日本社会で外国人の人権が劇的に向上する時代と重なり、その変化の真っただ中に参加したという得難い経験をしました。
1979年に2つの国際人権規約が締結され、続いて80年代以降、難民条約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約…が次つぎ日本に受け入れられていきます。日本国内での具体的な人権の課題を求める運動が、国際諸条約の批准運動とつながる形で進んでいきました。そうした国際的合意文書が「武器」となって、法や制度、行政のスタンスが変わり、学校の現場にもプラスに作用していく。自分たちの運動が変えたのだという実感は、勇気と自分の存在に対する肯定につながりました。「住まわせてもらっている」のではなく「同じ価値を持った人間なのだ。合理的な説明のできない区別は差別だ」という主張ができるようになったのです。
もちろん一人で声を上げられるはずもなく、小さくても同じ目標を持つ集団をつくることができたから成しえたことです。またそのグループは、他のもっと大きなグループの支援を得たからこそ、マスメディアに取り上げられるような成果に結びつきました。一方で、組織を作りあげている文化について、これでいいのかと疑問に思うこともありました。特定の組織ということではなく、一人ひとりが心地よく「参加」し、相互の多様性を認める、しかし必要なときには固くつながるというような組織文化が社会全体で十分に育っていないと思います。「参加」は、いろんな領域で未だ達成できていない私の課題のキーワードです。

5、「そういう存在であること」にこだわる

結婚して、子どもが生まれて、名前をつけようとした時、コリアン的な名まえがわからない。自分の中に「朝鮮文化」がほとんどないことに気づきました。大学で教養としての朝鮮文化を学んだのですが、文字の上の情報と生活のにおいは別物ですね。
最近、ソウルの遠い親戚を訪ねたときのことです。5歳くらいまで日本にいて、私の母とも一緒に遊んだが記憶がある人です。情厚く私に接してくれるのですが、息子のお嫁さんたちに「この人たちは日本人だから、今日の料理はいつものように辛くしたらだめ」と言っているのが聞こえました。同行していた母に、なんと言っているか通訳しながら、思わず苦笑です。親戚だけど彼らから見たら、わたしたちはもう日本の人なのだなと。1980年代、日本の運動の中では、「わたしたちは日本人じゃない。それを認めてほしい」ときりきりしながら言っていたのにね。
話せば長いですが、私は、日本でも韓国でもそこに住むマジョリティが想定しているどちらの側でもない、「そういう存在」であることにこだわって発信し続けたいです。なぜこだわるのか?という原点は、「それが理由で排除された」からです。次の若い世代のコリアンには私のような苦い思春期を味わうのではなくに、もっとのびのびと生きることができればいいなあと思います。そして「希望」を伝えたいですが、それは、過去をないことにすることからは生まれない。親たちの世代がどんな社会を生きてきたのか、そこから課題をみつけ、その答えを探すことから未来は拓くはずだと思っています。

6、国際的に共通理解されている人権というものがあるのだ

ヒューライツ大阪の正式名称は、一般財団法人アジア・太平洋人権情報センターです。気がつけば20年近くここで働いています。このセンターの設立の経緯や組織の情報はウェブサイトにアップしています。2008年度までは大阪府・大阪市・堺市から補助金を含めた支援を受けていました。
人権というテーマの性質上、センターの事業は、人権NGOや人権運動と関係なく進めることはできませんが、ここは純粋な運動団体ではありません。私はNGOや運動団体と行政、あるいはNGOと研究者との間にあって、それぞれのセクターをつなぐ役割を果たしたり、協働の事業を取り組んだりするポジションにあると思っています。
ヒューライツ大阪の事業を通じて、また新たな世界との出会いもありました。それは、「国際人権基準」という世界です。国際的に共通理解されている人権の全体像が把握でき、やっと人権とは何かについて私の胸にストンと落ちました。そしてそれは法律を専門にしている人たちから学びました。弁護士、国際人権法の研究者、あるいは国境を越えてテーマで人権活動をしている人たちでした。お恥ずかしい話ですが、人権は「人間の権利」だということにしみじみ納得しました。そして「権利」が、時には、人権教育を推進しているという教員にも嫌われている単語だと気付いたのもヒューライツ大阪に来てからでした。
「自由権」や「社会権」の確立の歴史、まず人権を保障する義務を負っているのは誰か、人権に関する条約とは何か…大学で法律を勉強している人たちには、世界の常識であったかもしれませんが、私にとっては、「そんな重要で基本的なこと、学校で早く教えてよ」でした。それまで、わたし自身は、私人間の差別事象への関心の比重が高かったのですが、逆に、人権を見渡す広い視野から、私人の間の差別事象を整理することの大事さがわかったのです。
でも法律家の人たちは、総じて人権教育には関心が薄いように思います。また、かつての私は、専門知識は、弁護士や研究者にお願いしますという態度で、人権に関する条約の条文も正面から読もうとしませんでした。確かに、法律用語は難解だし、日本語に訳された人権文書も読み進む気になれない。でも本来、一人ひとりが人権を学ぶ権利を持っているはずだし、その知識を本当に自分のものにしなければいけませんね。それぞれの人生にかかわる内容を含んでいるのだから。
人権の核心部分を理解することと、一人ひとりのエンパワメントを十分につなぐことができていないのは、私たち人権教育を実践している人たちの力不足と自覚不足だと思います。ヒューライツ大阪で働きだして、まもなく「参加型学習」という言葉を知り、それを日本で実践しようとしている教員グループとまず出会いました。ERICの出版した本やファシリテーターとしての角田尚子さんと出会ったのもこの頃です。ものの見方、伝え方を考えるのに随分いいショックを受けました。伝えたいのに、うまく伝わらない「国際的に共通理解されている人権」。人権への理解を深め、支援者を増やすためにどんな学びの場が有効なのか…模索が続いています。

# by ead2011 | 2012-05-15 14:53 | Trackback | Comments(0)

大野清子さん CAPセンター・ジャパン理事 CAPくれよん

CAPセンター・ジャパン理事 大野清子さん
2012年4月15日 インタビュー実施

1.CAPの活動について

CAPくれよんの会員は現在15人、そのうち常時活動できる人は9人です。
2004年に正式にCAPグループとして登録しました。1997年よりCAP青い空のメンバーとして活動していたのですが、埼玉県内に事務所がなければ、県事業など、受けにくい事情が生まれてきたため、埼玉県内に事務所を置くグループとしてCAPくれよんを設立しました。

*****設立までの経緯*****
1997年CAPスペシャリストとなる
1997年から1998年までCAPネットワーク埼玉に所属する。
(代表が神奈川県に転居したため、このグループからは退会する。)
1997年~2004年までCAP青い空に所属
(初期は二つのグループに所属)
青い空時代は関東でもグループが少なく、東京、埼玉を中心に、関東地域全体にワークショップに行っていた。
2004年4月CAPくれよん設立
青い空から3名と近隣グループから2名参加し5名で発足。
2004年9月の養成講座で6名が新たにメンバーとなる。
************************

CAPを始めるきっかけは、男女混合名簿を作る会の活動をしていた時に、CAPの養成講座の存在を知りました。森田ゆりさんがトレイナーの講座でした。「子どもの問題にも取り組まなければ」と友人3人を誘って、参加しました。講座では率先して恥をかいてでも学ぶんだという姿勢で、積極的に参加しました。後に、わたしがその時の講座のムードメーカーだったよと言われました。参加者は60名ほどもいたでしょうか。

そのころ、年間50万円もかけて「産業カウンセラー」の資格をとったりしていたので、CAPの講座が高いとはまったく感じませんでした。そのころの養成講座は3日間だけでしたし。

わたし自身の活動の根本的な関心は、女性の地位向上にあります。講座で、いじめのロールプレイを見ていた時、いじめに対して「いやだ」と子ども役の人が言った時、その人の身長が、すっと、高くなったように見えたのです。あ、これだ、男女平等を何万回言葉でいうより、このロールプレイは一度で平等の意味が分かる、と思いCAPを始めました。

わたしは埼玉県の川越市の中でも 農村部(田舎)で育ちました。子どもの頃、母に連れられて、隣りの家の結婚式の手伝いに行ったとき、北に面した台所で、女たちはまかないをして、南側の陽のあたる座敷では男たちがご祝儀の宴会をしているのを見て「変だ」と感じました。女の人たちにも不満がなかったわけではありません。ただ、それを「女の役割」という言葉に埋め込んで、自分たちを納得させていました。幼いわたしは「将来は北側なんだ。」と理解し「すごく嫌だ」と思ったことを今でもはっきり覚えています。
もう一つは、結婚すると姓が変わることです。女がつながりにくくなるシステムだなと感じてきました。連携や関係をたちますよね。あ、あの人、同級生かな?でも、名前が違うから、違うかも、と声をかけることができないかった時が、たくさんあります。いまのように便利になった時代でも、検索にもかからない。悔しいと思います。

息子は「お母さんの活動は先生にわかるように説明できない。めんどくさいから、専業主婦ということにした」とわたしが活動していることを学校では話しません。なかなか活動への社会の理解、家族の理解は難しいです。
ジェンダーの問題では、まわりからの影響も大きく、小学生のころ「家の財産て、長男が継ぐんだって。ぼくが、この家の財産を継ぐんだね」と突然言いはじめ、驚きました。「借金もあるけどいい?」と聞いたら「それならいらない」と即答でしたが。ジェンダーについて私の思いがどんなにあろうと、社会の影響のほうが大きいと、しみじみ感じた出来事でした。

こういう活動にリスクはつきものです。リスク覚悟でわたしはやっていますが、子どもの迷惑になることは避けたいという気持ちもあります。子どもにどこまで理解してもらえるか、ある程度の年齢になってわかってもらえればと思っています。親子関係の講演会を聞いた時、「子どもは女が育ててきた。(母親、乳母、ねえや)」養育者と同性の女の子は情緒が育ちやすいけど、異性である男の子は情緒が育ちにくい、というような話しを聞きました。どこか納得してしまいました。性別役割が強い社会、性別格差の強い社会における子育ては、いまも、課題だと感じています。

2.CAPの社会的、教育的効果について

CAPは社会変革だと思います。ワークショップの時に、全員の腑に落ちるようにと思って話すとくどくて、かえってわからん、となってしまいます。そこで、40人が受けて、5人の子どもたちに何かが残ってくれたらOKと思ってやっています。その子たちが日常でCAPを使ってくれたら、それでクラスの空気が変わり、クラスにCAPが定着していきます。
CAPスペシャリストの養成講座を受講した時に、森田さんがテーブルに腰をかけたことを衝撃をもって受け止めました。カルチャーショックでした。

いまの日本の社会は(きっと世界中)女性にとってとても生きにくい。しかし、違う世界がある。これぐらい違わなければ、かわらないのだと、感じました。
最初の頃は、性暴力とか、レイプとかいう言葉を学校の神聖な黒板に書かないでくれ、というような指摘すら受けたのですから。性暴力という言葉が、ひわいできたない、だから書くな。という論理なのですね。それから考えれば、変わりました。

学校が変わったかどうかは一概に言えません。校長先生の権限が大きいので、校長先生の影響は非常に強いと感じます。
その他としては、地域の子ども達のほとんどが同じ中学に行く地域では、クラスの中にいろいろな子がいるが、学校選択制や私立中学に行く子の多い地域では、高校のように、ある程度同じような子が多いと感じます。学校により、子ども達の状況がかなり違うので、単純に比較できないと思います。


それ以外にも、10年目、12年目の実践で、中学校の先生から見て、小学校時代にCAPを受けた学校の子どもは、いじめる子が少ない、相談する子が多い、とめに入る子の存在もあるというような違いを感じると言います。

40人という人数は確かにロールプレイや参加して討議するという活動には多いのですが、スタッフを6人派遣し、グループファシリテーションを多くするなどしてカバーしてきました。学級人数を減らす運動など、考えたことはなかったですね。
40人分の意見を板書する、言葉を学校によって変える、要員配置を工夫する、本当に自分たちの努力で、一つひとつの学校の状況に合わせてきました。
就学前は15名が限度ですから、1クラスを2つに分けて、実践したこともあります。30名、40名のところは、3つのわけてもらったりしたことも。
中学生でも15人ぐらいが、適切な人数ではないでしょうか。

とはいえ、実際に学級崩壊が起こっているところでは、ワークショップはできません。
安心できる関係、支配関係のないグループで伝えるのでなければ、CAPのメッセージは空論です。養護施設では、子どもの背景にあわせて、シナリオの言葉も、一つひとつ吟味して、使うようにしています。ことばや関係を大切にしたいと思います。30人を超える相手に対して言う言葉は、Broadcasting一方的な放送でしかないのではないでしょうか。

3.CAPと教育改革、これから

確かに40人が、CAPのような教育活動にふさわしい学級人数だとは思いませんでした。しかし、そのような教育運動を展開する余裕がCAPにはなかったのではないでしょうか。学校に入れてもらうというだけで、行政に働きかけたり、それ自体が運動です。

学校は授業内容の増加などで、CAPの実施は年々難しくなっています。
ただ、CAPは子どもたちに届けるだけでなく、同時におとなワークショップも実施しているので、たとえ1年に10人の参加であっても、10年続ければ、校区に100人は、CAPを知っているおとなが生まれる。それが変化につながっていくのではないか、と思います。それは、CAPが目指す、性暴力の被害者をせめない、暴力をゆるさない、体罰は使わないなどの風土です。

いまは、幼稚園や保育園などでもCAPプログラムを実施しています。子育てネットワークや、親子劇場とつながるとか、学校だけでなくつながる先も変化したり、増やして行ったりする必要があるでしょう。

デートDV等のプログラムはニーズが高いです。awareなども、ファシリテーター養成講座を開催しています。CAPと両方やっている人も多いと思います。それらのプログラムでは、研修用のビデオの活用などもすすんでいると思います。

プログラムの多様化とつながりの多様化、CAPグループもCAP以外の活動をプラスしていくところが増えるのではないでしょうか。
ここ10年が、CAPが生き残れるかどうか、大切な時だと思っています。

# by ead2011 | 2012-04-19 11:55 | Trackback | Comments(0)

家本めぐみさん CAPセンター・ジャパン理事 トリプルP理事

CAPセンター・ジャパン理事
トリプルP 理事        家本めぐみさん
2012年4月15日 インタビュー実施

1.トリプルPの活動について

トリプルP Positive Parenting Program前向きな子育て支援プログラム
の理事を2005年からしています。2003年ぐらいから勉強会などをしていました。そして、10数名の仲間でオーストラリアに日本から「養成講座」に2005年に参加したのがスタートです。
トリプルPは、オーストラリア、クイーンズランド大学のマシュー・サンダース教授が30年前に開発したプログラムです。世界の他の国でも取り入れられていて、イギリス・カナダ、オーストラリアなどでは、国が導入のバックアップをしています。これらの諸国では受講は無料なので、教員もたくさん受講しています。
プログラムは、8セッション、毎週一セッションを続けて受けてもらいます。その内の、3回は、個別の電話セッションで、15分ぐらいです。その他のセッションは2時間程度、17名程度が、一度に受講できます。人数は、ファシリテーターの能力にもよるのですが、個別対応などもあるので、20名程度ではないでしょうか。毎週、続けて受講してもらうことが条件です。
主に、問題行動を抱える子どもの保護者を対象に実施していますが、このプログラムのよいところは、対象となる保護者、親を限定していないところです。「すべての子育てにかかわる人々」にとって有益な子育てのスキルだということです。
もう一つ、このプログラムのよいところは、アセスメント、評価がしっかりしていることです。わたし自身、実践して、本当に受講した方のスキルが向上すること、態度や姿勢が変わること、自信がつくことを実感しています。
スキルは17にまとめられています。「簡単なルールをつくる」とか、「子どものよいところをほめる」などです。
よく思うのですが、子どもに対する対応で、相手が大人であれば、決して言わないようなことがあると感じます。なぜ、子どもに対しては、通常、大人同士では決して言わないようなことも言うのでしょうか。子どもは大人の対応から学んでいるというのに。不思議です。
まだ、日本にはトレイナーがいないので、オーストラリアのクイーンズランド大学に留学した経験のある日本人の方二人が、来日して、年に二回、ファシリテーター養成講座を開いています。受講料は18万円と、決して安くはありません。3日間プラス実践評価のための1日の講座です。各回20名限定なのですが、キャンセル待ちが出るほどの人気です。すでに300名ほどの有資格者がいます。

和歌山では、児童相談所の職員の方が受講したり、あるいは児童相談所に来ている保護者対象にプログラムを実施したりしています。どの会場に参加してくれる親も子どもへの対応方法さえ知れば自身の力を発揮できることを、実感しています

2.CAPの活動について

CAPの活動は1999年から始めました。エンパワメント関西で田上さんたちと一緒に活動していました。2001年から和歌山で活動するようになりました。和歌山には4つのCAPグループがあったのですが、現在は、2団体が活動しています。タドル和歌山は現在14名ほどで活動しています。タドルというのは「よちよち歩き」という意味で、まあ、ぼちぼちやっていこうよ、という思いでつけました。
現在、予算が削られる傾向があるのは和歌山も同じで、ワーク数は減っていますが、年に120回ぐらいは実施してきました。
取り組み出したきっかけは、わたしの子どもが通う保育園で、虐待を受けていた子どもがいたことです。なんとかしたいと思いました。
そのころ、和歌山市の議員をしていた方が、CAPを紹介してくれて、いっしょに受講し、4名の仲間で始めました。パートでしていた仕事を辞めて、専従で取り組みました。トリプルPを始めたのは、親支援と子ども支援は両輪だと思っているからです。たくさんの支援の仕方があって、親がその中から選ぶことができるのが大切だと思います。

3.教育の現状と、CAPやトリプルPなどのプログラムの効果について

トリプルPを実施していて、「子どもはたたかなければならない」とか、兄弟ゲンカは「止めなければならない」とか、子育てについて、さまざまな思い込みに縛られていることを発見します。「たたかなくてもいいんだ」という驚きの声が出たりするということです。
大人には言わないことを子どもには言う。そのような表現の中に「子どもに対する尊重の気持ち」が薄いことを感じます。それは学校においても同じです。
「あんたさえ居なければ」とか、「死ねば良いのに」とか「邪魔や」とか。娘が高校生の時、友人たちと話していて、そんな言葉を言われたことのない子の方が、少数派だったのです。
教員も同じです。「忙しい」というのが、子どもへの対応が欠如している理由の一つなのでしょうが、子どもと向きあえていないと思います。一言で言えば、対応が「鈍感」だなと思うのです。大人の一言一言が子どもを育てているという自覚がないように見えてしまいます。もっと、子どもとの対応を大事に考えて欲しい。

トリプルPにはDVDがあるのですが、それを見ると、多くの親が「ああ、こんなのあるある」と、オーストラリアの事例にも関わらず、共感するのです。そして、そのような対応から、子どもが何を学んでいるかを明らかにし、問題点を整理し、どうすれば、子どもの問題行動を解決できる対応になるかを考えているのです。

学校での教員の行動も、一つひとつ、このように検証すべきだと思います。
トリプルPが明らかにしているように「問題行動」は子どもが注目されたいというメッセージなのです。問題行動に注目することが問題解決につながるのではなく、「計画的に無視」したり、あるいはいいよい行動を増やすための手だてを考えたりできるはずです。

悪いことは眼につきやすいのです。いいところは、探さないと、わからない。当たり前の中に埋もれているからです。悪いことに焦点を当てるということは、ネガティブに時間をかけるということです。子どもの中にあるさまざまなこと
の中から、ネガティブにだけ焦点をあてる。対応の時間がむだになることも・・・

子どもをよく観察して、具体的にほめること。描写的にほめる。そんなことも、学校教育の現場にも応用できると思います。

遠隔操作をしない。近づいてはっきりと指示を出す。やってほしいことを伝える。など、学校現場が学べることもたくさんあります。

そのような対応のかわりに「いやみ」を言うなど、大人としてはありえないことだと思います。

基本的には、肯定的な関わり方をすることが子どもを育てます。その関わり方がクラス全体を穏やかなものにするはずです。そして、対応する大人のイライラも減らすことができるのです。

4.教育を変えるヒント

トリプルPのアプローチは、問題解決的な認知行動療法の考え方が基盤にあるとものだと思います。行動日記をつけたり、タリーシートという計数表を記入して行動のパターンをふりかえってみたりするのです。そこから「なぜ月曜日に問題行動が多いのだろうか」と考えることで、原因がかわり、手だても17の技術の中から応用して実践してみることができるようになります。それを自己統制力と呼んでいます。

クイーンズランド大学にはFamily Support Centerというのがあり、地域への子育て支援プログラムを推進しています。

国単位で取り入れているベルギーでは、一昨年トリプルP学会が開かれました。国として取り組み不適切な関わりを減らす、そして親を支援することの重要性を感じました。

子育てにおける大人の対応のいいパターンを、子育てにかかわるすべての大人が習熟すること。子どもに対するエンパワメントのCAPと並んで、必須だと思っています。

行政とともに取り組むことで、支援に厚みと深みが生まれることも実感しています。民間団体やボランティア、プログラムなど、多様な選択肢が組み合わされて、推進されるといいですね。

# by ead2011 | 2012-04-17 09:11 | Trackback | Comments(0)

萩原なつ子さん、立教大学、インタビュー

萩原なつ子さん、立教大学、インタビュー

2012年2月1日 水曜日
於: 立教大学 13:00-15:00

インタビュー項目

1.昨年出された「大学等及び社会教育における消費者教育の指針」のガイドライン策定の背景と経緯、これからに期待すること。
2.フィンランドなど、海外の教育改革の動向と、日本への影響
3.日本の教育における「市民性教育」の現状と課題

インタビューは、録音し、記録起こしした原稿について、了承が得られたものをブログで公開する。
この連続インタビューを通して、何をなすべきか、教育研究者や民間教育団体ができることは何かを探りたいと願っている。

インタビュー記録

1.文部科学省の消費者教育推進について

文部科学省(生涯学習政策局男女共同参画学習課)は、2010年度に「消費者教育推進委員会」を設置し、大学や社会教育において消費者教育を推進する際の「大学等及び社会教育における消費者教育の指針」について検討して作成しました。メンバーには消費者団体、教育委員会、消費者庁、大学、有識者など多様な方々が参加しています。私は推進委員会のメンバーとして、主に社会教育における消費者教育について検討しました。消費者教育を推進するための担当部局を文部科学省に設けて、委員会を設置したことは画期的なことだと思います。
指針作成に際しては、「大学等及び社会教育における消費者教育に関する取り組み状況調査」を行いました。大学の消費者教育の実態はどうかというと消費者被害を防ぐためにガイダンスの中で取り入れられているところは多いのですが、消費者教育という科目が特に設けられているところは必ずしも多くありません。それぞれ、担当の先生方の関心の範囲で行われているというのが実態です。社会教育の中ではこれまでも公民館や消費者センターで講座が開かれていますが、指針では、さらに充実させるために多様な主体との連携・協働の必要性を示しているのが特徴です。
国際比較という視点から、私はフィンランドと韓国に調査に同行しましたが、韓国は日本の消費者政策をかなり参考にしていました。フィンランドでは、OECDのガイドラインを参考にしながら、自分たち独自の推進体制で、取り組んでいます。大きな流れとしては、持続可能な社会の形成の担い手としての判断力のある、社会変革の「主体」としての市民を育成するという、いわゆるCitizenship Education(市民性教育)に基づいた消費者教育を志向していることが確認できました。それからフィンランドでは、教員が全員大学院修了以上で、日本でいう教育実習がとても長く、多くの先輩教員、メンターのサポートを得ながらOJTで教師として育成されていて、驚きました。それから教員は、それぞれ教科書を自分たちで作ることもできて、教科書をつくるためのサポートをするオンライン上のサイトなども豊富にありました。そのために、新しい教育内容をすぐに現場に取り入れられるようになっていました。それから、日本の社会教育における生涯学習というのは、22歳からを対象としているようなのですが、それに対して、フィンランドでは、「一生涯学習」なのだと強調されました。教育費は無料なのですから。そのかわり、税金は高い。しかし、教育は公共が本来やらなければならない部分だということで、教育費は無料です。フィンランドの先生に、日本では子供を大学に行かせるために、親が貯金をするそうですね?!大変ですね、と言われてしまいました。日本は本当に教育にお金がかかりすぎです。
私は1970年代に公害問題や食品添加物や農薬問題に関心を持ったことから、特に食の安心・安全に関するさまざまな活動に参加したり、調査・研究も行ってきました。チクロ、サカリン、AF2の問題など、最初は食品の問題から入りましたね。当時から、そうした問題を追及する担い手は主婦を中心とした女性でした。性別役割分業の中で、家族の安心・安全を預かる立場に置かれていたから、そういう問題に気づきやすかったわけです。今の女性たちが中心ですが、主体とするとNPOや消費者センター、公民館、大学、弁護士会、企業など、その担い手は多様になってきています。
現在大学では環境教育も担当していますが、持続可能な社会の形成という点で、消費者教育と環境教育は密接な関係があります。消費者教育というと、「だまされない消費者」「サラ金や金融問題」など消費者の権利や消費者保護、金融教育に関する教育というイメージが強いのですが、実際は、1980年代に登場したグリーン・コンシューマーやエシカル・コンシューマー(倫理的消費者)の概念のように、環境に配慮した商品を選択するなど、持続可能社会のために行動できる消費者を育成するという側面も重視されてきました。指針が作成された背景には、幅広い分野にまたがる消費者教育を一度整理して、全体を俯瞰したガイドラインが必要だという機運が高まったからだと言えます。
 2011年度は、家庭教育部会が設けられて、家庭における消費者教育をテーマに、「親子で学ぶ消費者教育の手引き」を作成しています。親子で遊びながら一緒に消費者学んでもらおうという狙いもあります。家庭で親子が遊びながら消費について学ぶための教材開発をしていて、「おつかいすごろく」を作成しています。実験的に11月と1月に親子を対象としたワークショップを開催しました。いずれ「おつかいすごろく」は、多くの人に活用してもらうために文部科学省のHPからダウンロードできるようになると思います。

2.萩原さんご自身の「教育的アクティビズム」の背景は?

わたしの祖父母は小学校の教員で、クリスチャンでした。4人の子供たちには聖書に出てくる名前を付けていて、私の父には「眞理夫マリオ」と命名しています。父は孫たちから、「スーパーマリオ」と呼ばれていました(笑)。
祖父は、父が6歳の時に他界しているのですが、4人の子供の「子育て日記」をつけているのです。貴重な資料です。大正デモクラシーの影響からか、妻や子どもとの関係を大事にしていた様子が書かれています。私のライフワークとして、この日記を世に出したいと思っています。祖母も日記をつけていました。山梨県の女教員組合の委員長を務めていたような人で、当時から性教育の必要性や男女平等を説いていました。私はおばあちゃん子でしたから、とても影響を受けています。「生涯これ学習なり」が口癖のおばあちゃんでした。
父は第二次世界大戦に陸軍で中国へ従軍しています。自分の生涯の汚点だと言って、戦争中のことは、一切語らなかったですね。それが子供たちにとっては、逆に大きな平和教育だったと思います。
父も母も、私たちにはああしなさい、こうしなさいとか、これはだめというようなことは一切ない、育て方でした。子どもに対して、キリスト教の洗礼を強制もしませんでした。本人の意思を尊重してくれていました。市民性教育だったかもしれません。父も日記を書いています。昭和24年から始まる日記の最初の一行は、「これからは男女平等の時代である」です。親子三代、遺伝子を感じますね。

3.教育的アクティビズムについて、いまの教育に求められるものは?

学校というところは、「拡大生産者責任」を問われるべきだろうと思います。どのような人材を輩出するかについて、責任を持つべきです。ただ、学校だけでは変革が難しい。家庭教育や地域における教育も重要だと思います。
教育は、もっといろいろな主体、多様な人がかかわった方がよいと思います。
それから、教員養成のあり方を抜本的に変えることも必要ではないかと思います。最近では社会人経験の方も途中から教員になれるようになっていますが、大学の特任、客員教授制度のように、もう少し専門性のある人を小中高の現場に配置できるような仕組みも検討されてよいのではないでしょうか。
学校をネットワーク型にすること。生徒が地域を元気にする、地域が生徒を元気にする、地域の学校が地域を担う人材育成を行なう。そんな実践ができればいいと思います。
わたし自身は、社会人対象の大学院で教えています。学生の職業は非常に多様です。ストレート組もいます。そこに元校長先生や元町長経験者、会社社長などが入学してくることもあります。2年間という短い期間ですが、その間多様な人々と関わり、学ぶことによって、大きく変わります。自分がいかに狭い世界にいたか、考え方が固定化していたのかがわかるようです。顔つきや考え方が変化する彼・彼女たちを毎年見ていて、社会人大学院の社会的意義を実感します。現場が動いているからこそ、大学も変わってきた。生涯教育の考え方も変わらざるを得ないと思います。フィンランドのように学びたい時が学び時というような「一生涯学習」を可能にする教育・学習環境づくりが求められているように思います。


報告書の入手は、以下まで。
生涯学習政策局男女共同参画学習課
電話番号:03-5253-4111(内線3462)、03-6734-3462(直通)

参考: 概要はこちらから
http://www.mext.go.jp/a_menu/ikusei/syouhisha/index.htm
調査報告の全編はこちらから
http://www.mext.go.jp/a_menu/ikusei/syouhisha/detail/1306390.htm

# by ead2011 | 2012-04-05 09:21 | Trackback | Comments(0)

松波めぐみ さん 2/2

■障害学・障害者運動へ(31歳~現在)
それで、社会教育や人権教育が学べて、社会人を受けて入れている大学院ということで探して、大阪大学人間科学部の平沢先生のところを見つけました。先生のことを特に存じていたわけではなかったんですが、その当時の地球市民教育センターが主催していた「アクティビティ・コンテスト」の審査員などもしておられたので名前は知っていました。
一度落ちて、二回目の挑戦で受かって、1999年の4月に大学院生になりました。31歳でした。社会教育のことは何も知らなかったので、やはり少しは勉強して入りました。入ってみたら、教育社会学など、おもしろい授業もありましたが、社会教育はどうもピンとこない。あと、人権教育を日本(特に関西)で学ぶとなると、同和教育/解放教育の歴史や実践がぶあつくあるわけですが、私自身はそれがよく理解できなかった。自分で良い同和教育をまったく体験していないし、学生時代関東だったためもあると思いますが。部落問題じたいがなぜこれほど突出して扱われるのかわからなくて、そのあたりのことを理解するには時間が必要でした。(少しずつ学んだこと、それからずっと後になって、旧同和地区の隣保館で3年間バイトして、ようやくわかってきた気がします。)
ともあれ、せっかく大学院に入ったのに自分のテーマを決めかねていた1年目の夏に、障害者の問題にごごごごっとはまりました。
それまで、(24歳の時に出会った)障害を持っている友人が一人いて、その友人とのことはとても大事だったのですが、自分のこだわりというか、活動や勉強とはとりあえず切り離して考えていました。
それが、大学院生1年目の1999年、ちょうどそのときは日本で『障害学への招待』という本が出たばかりだったんですが、その本に出会ってとても大きなショックを受けたんです。「障害学」というのは、それまで「障害」に関わる研究は障害者自身の視点にたっていなかった、障害者を客体にみて、治療や処遇、社会福祉を与えてきたけど、それは抑圧的なものであった!と告発するところから出てきました。障害者運動の中で展開されてきた主張や考え方を整理し、実践に生かしていこうという志向をもっていました。社会を変えるため、人の認識も変えなきゃいけない、と。いちばん基本になるのは「障害の社会モデル」という考え方ですね。障害者が苦労したり、しんどい目にあうのは「体に障害があるから」ではなく、そういう人たちを排除してつくりあげた社会のしくみ・社会的障壁(制度、法、物理的バリア、偏見、慣行など)が原因だ、という考え方です。それは、私が車椅子の友人と一緒に遊んだり出かけたりするなかで漠然と考えてきたことと見事に一致しました。友人はちょっと実は活動家だったのですが、彼女が話していたことはこういうことか!と思ったり。すごく大事なことを言ってる、と直感的に思いました。また、自分の中でもやもや言語化されていなかったことが、学問として、このように提示されているということにも新鮮味を覚えましたね。私は(大学院を選ぶとき)社会福祉を学ぼうとはまったく思わなかったんですけど、その理由もわかりました。
幸運だったのは、ちょうど日本で障害学の研究が始まったばかりで、これから日本でも、関西でもすすめていこうという、勢いがある時だったんですね。院生1年目だから、学問というものに希望をもっていたところもありますし(苦笑)。
障害学を学び、学ぶ場でもいろんな障害者の人に会い、本を読み、また障害者運動が主張していることを知れば知るほど、これは「社会が障害者を閉め出している」、人権の問題だと思いました。せっかく「障害の社会モデル」という人権に親和的な考え方ができているのに、壁は厚い。とくに「教育」の中で障害学というか「障害の社会モデル」の考え方を学ぶ取り組みがない。。解放教育/人権教育の中にもこの考え方はあまり…無いわけではないけど、ちょっと違うなあと思っていました。だから、障害学と人権教育を架橋することをしたいと思いましたが、それは今も思っていますが、なかなか困難な道のりで、何度も中断しています。
院生時代の障害学の勉強については、英語の障害学(Disability Studies)本を、友人と翻訳して出版することができたり。リバティおおさかで障害学の連続講座があったり、パイオニアの取り組みでしたね。2ヵ月に一度の割合で研究会もやっていました。障害のある人、それも車いすだけじゃなくて視覚障害の人、精神障害の人、障害をもって研究している人もいましたが、鍼灸師やら活動家やら、いろんな人に研究会を通して出会いました。自立生活運動(障害をもった人が自分らしく、自己決定しながら地域社会で生きられるようにしていく運動)の現場をもっと知りたいと思って、重度障害者の介助にも入りはじめました。院生としての生活と、障害者関係の活動や介助、二つの世界を生きていました。
障害学と教育に橋を架けたいと思いながら、なかなか中途半端なものしか書けず、もんもんとしていた時期が長いです。先ほども言ったとおり、「障害とは何か」についてパラダイムの転換(「障害の医学モデル」から「障害の社会モデル」へ)があって、障害者権利条約を作ろうという国際社会の動きがあるのに、日本での「障害」問題の扱われ方はなかなか変わらないし、何をどこから始めてよいのかわからない感じがありました。日本で人権教育を考える時に大きな財産であるはずの同和教育・解放教育の中に障害児・者は出てくるけれど、やはり情緒的なエピソードが中心で、福祉教育と大差ない。人権教育をやっている人の中で、「障害」のことで話せる人はあまりいない。一方で、障害者運動を一生懸命やっている人は、目の前の課題で精一杯なところがある。
ううむ。大学院時代は、論文を書けない院生として、何度も暗黒というか、闇のスポットにはまっていました。人のせいにしたらいけないけど、なかなか「一緒にやろう」と思える人と出会えない。自分もうまく説明できないという感じですね。いったんそれをおいて、フェミニズムをかなり勉強し、「障害者とジェンダー、セクシュアリティ」関係でいくつか論文等を書いていたこともあります。あ、私自身、30代半ばになってやっとフェミニズムの本をよく読むようになって。(20代の頃はあまりピンと来ず。)
へんな話かもしれませんが、「当事者の学問」である障害学を(健常者として)やり始めて、そのあとで、フェミニズム/女性学の本も読めるようになりました。それなりの当事者性をもって、「障害をもたない女性」として考えようとした。ただし、それが一番のテーマになるというと、そうではありませんでした。
40歳でここ(京都の財団)に就職しました。9年間の大学院生活で結局博士論文は書けなくて、経済的にも苦しくなり、つらい時期でした。実は、(これを話すとますますこんがらがるのですが)博士課程の時代、在日コリアンの人権啓発に関わるNPOで週2日ほど、3年間バイトしています。その頃、在日外国人の子どもの教育についての研究プロジェクトにも入っていて、障害学と二足のわらじでしたが、どちらも中途半端でした。時間とエネルギーの限界を感じて、2004年、結局在日外国人の方面は撤退しました。バイト先が破綻し、体調を壊したり、いろいろありました。
そのバイトのあと3年間(2005~2008)、今度は豊中の旧同和地区にある隣保館で働いて、部落問題についてやっといろいろ「腑に落ちて」きたような気がします。この時期は障害者運動でも重要な時期でした。なんだかんだと常に複数の問題に関わっていると、そのおかげで気づくこともありますが、やはりしんどかったのも事実ですね。被差別部落、在日外国人、女性、障害…それぞれの課題の間でひきさかれる。ある運動をしている人たちは、別の運動、別のマイノリティのことを見事に何も知らなかったり、ということを実感するのも日常的でした。
2008年4月に京都に(期限付きとはいえ)就職できて、本当にほっとしました。それからやっと、障害者関連のやりたい活動というか、実践に関われるようになった気がします。2008年秋に、大阪の堺で「アドボケーター養成講座」というのが開かれて、参加しました。これは障害者差別禁止条例を各地で作っていこう、そのためのリーダーを育てるのが目的の講座でした。熊本で活動する、本人も車椅子の弁護士・東俊裕さんがファシリテーターです。全国各地から障害当事者が50人ぐらい集まって。東さんが本気で運動し、仲間に呼びかけている姿に触発されたし、北九州や福井など、各地で運動している魅力的な当事者にも出会いました。
うまくいえないんですが、このアドボケーター講座をきっかけに、「あ、自分も運動していいんだ」と思ったんです。障害者権利条約(障害の社会モデル)の考え方を広めていくということは、研究だけじゃなく実践で行っていく必要がある。それは自分自身の責任でやればいいと気づいた。いままで、障害者の運動に健常者がどう関われるのか、何もしないほうがいいんじゃないかという気分があって、自分を抑圧してきていたことに気づきました。
ちょうどそのアドボケーター講座の後、2008年11月ですが、「障害者の権利条約を活かしていくために、障害者団体のネットワークをつくろう」という動きが京都で起こっていることを耳にしました。矢吹さんという当事者の方が呼びかけていたんですが、その時初めてしゃべったのに、「わたし手伝います」と言って…。その人のことも、京都の運動のことも何ひとつ知らなかったんですが、それでミーティング(事務局会議)に出るようになり、現在に至っています。ネットワーク組織で差別禁止条例をつくる運動を進めるための、事務方の手伝いともいえます。いろんな運動、団体の人と関わるし、折々にトピックもあるし、ほんとに勉強になります。最初5つぐらいの団体だったのが、どんどん増えて、いまは40団体にまで広がっています。2カ月に一度集まり、それより頻繁に事務局会議をして。半年に一回ぐらい大きなフォーラムをしたり、勉強会をしたり。
(マイノリティの運動、反戦や脱原発の運動、どれもそれぞれ違いがありますが)障害者運動が他の運動と違っている面を、時々考えます。多くの場合、発信が団体単位なんですね。デモや集会のような大きなアクションで、ほんとに「一般」の人々の参加を想定していないなあということもよく感じます。20代のときに経験したNGO活動では、自分が関心を持てば、ふらっと参加していた。9.11の後のアフガニスタン侵攻反対とか、イラク戦争反対とか、ガザ爆撃の時とか。でも障害者運動は、「今どうなっていて何が必要か」というのが、当事者・関係者以外にはわかりにくくなってしまっている。これも中にいたらそれが当たり前になってしまうのだけど。もう少し違うタイプの運動があってもいいのにな、とか。2003年頃から、障害者運動ではずっと大きな(切実な)動きが起こり続けているんですけども…。
角岡伸彦さんの本、『カニは横に歩く』で、1970年代からの兵庫の青い芝運動の中心にいた人々の群像が描かれていますけど、とても画期的な運動があったわけだけど、思想として定着していったものがある一方、結局のところ、限られた人しか地域で生きていないということを、しばしば考えます。多くの重度障害者は施設にいて、非常に制約された生活を送らざるをえない。
その人たちにとって「運動」がこんなことを達成したと言っても、何の意味があるだろう。その人たちが「地域に出る」手伝いをする、地道な活動を続けてきたし、今も続いている。でも地域間格差はとても大きい。「地域移行」を本当に進めるには介護保障の制度化が必須だから、ずっと脈々と運動があった。2003年に「支援費制度」が始まり、それまでは使える制度が自治体ごとに違っていた(全くない自治体も多数)のが、全国一律の制度ができた。でも使える介護時間時間数の制限あったり、判定の仕方が実状に合わなかったり…。一つずつ訴えて、早々と制度が破綻した後、厚労省は介護保険との統合をもくろんで、大きな反対を押し切って、2006年に自立支援法を強引に通してしまった。とても簡単には説明できませんが、こうした国内の大切な動きも、そして同時期に障害者権利条約が国連で採択されたことも、NGO時代からの友人や大学院の人たちは知らない。当たり前かもしれないけど、なんでこうなんだろうと思ってしまうことがあるんですね。 
障害者権利条約のことは自分の転機としても大事なので、ちょっとお話しておきます。2006年、自分がこれまででいちばん貧乏だった頃ですが、その年の8月に国連で「第8回アドホック委員会」が開催されることを知りました。2002年頃から会議を重ねてきて、いよいよ条約ができる、その直前の会議です。権利条約にとても関心があるけど、なかなか実感がわかない。国連の会議に日本から参加した人のレポートは目にしてきたけど、用語一つとっても難しいわけですよ。権利条約は、今後必ず日本社会における障害者運動(あるいは人権運動、人権教育?)にとって非常に重要なものになるという予感はありましたから、なんとかそれを作っている現場を見て、空気を吸いたいと思ったんですね。私はどこの組織も代表していない、自立生活センターの事業所に登録している一ヘルパーです。でも、誰でも参加できると聞いたので、友人のつてを頼って、DPI日本会議の人に連絡をとって、申し込んでもらいました。当然ながら参加費、渡航費、滞在費、すべて自腹です。ニューヨークに行ってみたら、最終的に40人ぐらい来てたんですけどね、日本から。バリアフリーの高級ホテルに泊まっている人たちのかたわら、一番安いドミトリー(6人部屋)からゴム草履で国連に通いました。2週間弱もニューヨークに行けば、それでも蓄えをくいつぶすような旅でした。もちろん行って良かったですけど、当時はわからないことだらけ、知らない人ばかり、私がそこにいるのは当然でもなんでもなくて、不安でした。
ともあれ世界中からさまざまな障害種別の当事者が集まって、NGOとしての発言やロビイングをしている。政府代表の中にも障害者がいる。委員会のときだけでなく、会議場の内外でさまざまな細かい調整が続けられていました。聴覚障害の人のための文字放送のプレゼンがあったり、日本政府と私たちNGO側との意見交換の場があったり。いろいろな利害の衝突や難問をクリアする努力が深夜まで続けられる。ああ、こういう動きの中で条約ができるのかと。日本から代表で行っている障害当事者の人たちの必死の活動にふれて、条約ができることがどれほど切実に必要なことなのかを実感する出来事もありましたね。また、私が「これはすごく大事なことだ」と直感して学んできた障害学の、「障害の社会モデル」が権利条約には埋め込まれている。これは研究者や専門家ではなく、障害者当事者のとても大変な運動のなかから出てきて、共有されてきた考え方です。それが人権の条約の柱になるまで高められた、ということじたいにエンパワーされます。いや正直いうとその後じわじわと、アドボケーター講座等を経て思っていることです。
障害者権利条約にまだ日本は批准していませんが、3年以内にはするでしょう。その考え方、なかみをどう普及していくか。これを人権教育としてどう行えるかを考えたい。それは他にやる人がいないと思っています。「障害」の世界と人権教育が、人脈としても「切れている」実態がありますから。
その昔、もう20年近く前ですが、アムネスティのボランティアをしていた時、「子ども権利条約の翻訳創作コンテスト」を恒成さんの発案でやったことがあって、当時ボランティアとして手伝ったことがありました。そういうのも一つの案だし、いろいろな方法で権利条約のなかみを広め、条約を道具として社会を変える運動につなげられたらいいな、と。まだ妄想ですが。
 障害者の運動は日々待ったなしというところがあります。忙しい。介助体制は、いつ崩れるかわからない。施設から出たい人が家族に反対されたり。家探しで苦労したり、交通機関の乗車拒否に遭ったり、就職しても簡単にクビになったり。目の前のことがいつもある。誠実にやっている人たち――障害当事者でも、かれらと一緒にやってきた人でも――の磨かれたセンスや確かな人権感覚はほんとすごいと思う。本人は「人権」とか意識してないだろうけど。本当に尊敬できる人は現場にいると、特に京都の運動にふれるようになってから強く思っています。だからこそ、そのすごい部分を普遍化する言葉を探したいとも思っています。学ぶことがエンパワメントになるような学習を構想するためにも。

2.「気づきから行動へ」、行動変容、アクションに結びつくための教育に求められるものは何でしょうか?

非常勤講師としてもっている授業のなかで、障害当事者をゲスト講師に呼ぶなど、種まきはしていると思います。だけど授業だけの関わりという限界がある。本当はフィールドワークに連れていくとか、じっくり話すとか、いろいろなことができたらいいのにと思う。
社会教育関係や公務員対象の研修で、「障害者と人権」みたいな話をしにいくこともありますが、どこまで伝わったかなという悩みは常にあります。権利条約の話もしますが、少なくとも「1970年代以降、障害者運動がこの社会をどう変えてきたのか」、それでも「同時代を生きている障害者からこの社会がどう見えているか(最近の差別事例等)」を伝えることを忘れないようにしたいと思っています。それと「障害の社会モデル」の話は絶対にやりますが、どこまで自分との関わりを考えてもらえるかなあ。社会の中に障壁があるから、社会で生きている自分が無縁なはずないんですけどね。
かくたさんがおっしゃっていた「教育的アクティビズム」ということばは、自分のめざしているものにぴったり来たことばだった。私の場合、いちばんやりたいことは何だろう?と模索してNGOの活動をして、そこから「社会を変えるには教育だ」と思って移っていったわけで、アクティビズムの要素のない教育にはあまり興味がないので…。運動への参加の中で学ぶことも関係があるのかな。とにかく、自分が学んで変わって、エンパワーされることと、社会をよりよい方に変えていくことが同時に起こるような、そんな学習をつくりたいという野望は手放さずにおきたいです。
インターネットで検索しても、この対話のブログだけしかひっかかりませんが(笑)、これから必要なことばだと思います。


インタビュア雑感

とても刺激的なお話だった。運動の当事者性を獲得することは、何によらず大変だが、「運動へ」「教育へ」「障害者の権利へ」という三つの契機を通して、自分との和解を果たして来た道のりを、語る姿勢が、ゆるぎない。
録音には残っていないが、「いまのあなたの姿をおかあさんが見たら、喜ぶね」と言われたことがうれしいと、最後におっしゃっておられた。

障害者の権利条約が描き出したパラダイム・シフトは、すでに、子どもの権利条約が提示していたパラダイム・シフトでもある。「保護を受けるのは主体性の発揮のためである。」子どもが保護を受けるのはそれが子どもの権利であって、保護されているから主体性を否定されるのではない。それは「弱者を抱えている」時の女性もそうだ。保護を受けているからといって、主体性の発揮を阻まれるものではない。男性に都合のよい「女性」というカテゴリーを生きるのでもない。弱者を引き受けていない男性の基準に合わせるのでもない。

障害者も、健常者の基準に合わせるのでもない、「障害者」というカテゴリーを引き受けさせられるのでもない。一人ひとりの主体を十全に生きる、そのために、社会的ケアがある。

わたしが「女性を縛る「夢」の足枷」と表現したものは、障害者にも存在する。のだね。
http://ericweblog.exblog.jp/14254665/

「近代」が基盤を置いて来た「夢」の数々から、さめることを手伝うのが、生涯学習、生涯教育なのかもしれない。さて、学校教育は、いかがしたものか。

○ステップ1 考える練習をしよう。
○ステップ2 違う未来があってもいいはずだ。いまのどこかがおかしい。
○ステップ3 越えていけ、わたしたちを。近代の人間化と教育の人間化。

かなあ。

最後は書き起こしきれない対話になってしまったけれど、これまで「環境教育者の二つの帽子」、すなわち、モデルとしてのアクティビスト、環境保護運動をする人としての帽子と、教育者として一人ひとりが考えることを支援する立場の帽子と言って来た。そこに、実は「研究者」としての帽子も、存在するのだということを、学ばせてもらった。「教育者」は「活動家」でもあり、「研究者」でもある、三つの帽子。

ちょうど読み進めていたオギュスタン・ベルクの『風景という知』を思い起こしながら、「ヒリヒリする」と表現した、松波さんが自分自身の中に作って来た風景を感じていた。

教育は、景観づくりなのか、それとも風景づくりなのか。
日本という風土の中で、新たな風景を見たいと、そんな気持ちがした。

# by EAD2011 | 2012-01-16 12:39 | Trackback | Comments(0)

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