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高山敬太さんインタビュー

高山敬太さん、
2011年7月29日(金曜日) 10.30-11.50
オーストラリア、ニューサウスウェールズ州、ニューイングランド大学、教育学系、専門性部、教育社会学

1.アクティビズムについて
2.アクティビズムについてのバリアは何か
3.わたしたちに何ができるか

現在、日本に一時帰国してインタビュー調査を行なっている間に、忙しい中を割いて、インタビューに応じていただいた。以上の質問項目に関して、氏のオーストラリアの教員養成学部での教育実践を中心に話を伺った。

1.アクティビズムについて
大学で「多文化教育」を、これから教員になるという学生に対して教えています。基本的には白人の割合が高い地域で、自分自身の出自や育ってくる過程において「多様性」を意識するようなことが少ない育ちをしている学生がほとんどです。
授業内容は、まず、彼らに自分たちの経験をふりかえってもらって、小中高の学校体験を1000単語程度で記述してもらいます。最初は「文化的多様性なんか、まったくなかった」「中国系が一人いたかなあ」などの感想がほとんどです。二週、三週目に、読み物教材として、ベトナム系オーストラリア人の小説の一章やアラブ系の人の学校体験の記述などを読んでもらいます。オーストラリアあるいは英米における非白人による一人称の学校体験記を読ませることで、自分のそれとは異なる視点から学校を見直す視点を養ってもらいます。そうするとで、自分自身の経験においても実は同様な状況があったことを気づいてもらいます。

また、この「気づき」養う試みとして、授業で実際に「車椅子に乗って、図書館へ行って、本を借りよう」というのを行ないます。私の大学ではどのビルにも、「障害者」用のエレベーターやスロープが設置してありますので、一見バリアフリーにみえるわけですが、それらは所詮「後付け」なものです。問題は、こうした装置が障害者を「特別な施しの対象」と位置づけてしまうことです。また、障害者用のトイレの位置などはどうでしょうか? 私の大学の教育学部のビルでは、人通りの激しい玄関のすぐ横にとりあえず設置してあったりします。障害者保護法のようなものが出来て、あわてて設置したことが伺えます。こうした問題点を気づかせた後、もし車椅子の「障害者」が教育学部のビルをデザインしていたらどのように違っていたかを考えてもらいます。学生は、「こんなところにこんな形の階段をつくるなんてあり得ない」、「ビルのデザインを根本的にやり直す」と言い出すわけです。そして、健常者も障害者も共に使えるような階段やビルの構造を考え始めます。この車椅子の経験をメタファーとして、次に学校のカリキュラムや指導法を再考してもらいます。現在行われている多文化主義教育というのが、ほとんど現行のカリキュラムに後付けされたものであることに学生は気がつきます。英語を第二言語とする移民やアボリジニーの親や子どもがカリキュラムをデザインしていたならば、それはどのようなものであろうか、という視点が徐々に生まれてきます。

授業の後半では、前半で養った「気づき」を教育実践のコンテキストに移してもらいます。課題は、学生自身が過去に作成した授業計画を「多文化」の視点から書き直してもらうことです。教員の行動は基本的に授業計画に現れるものですが、実際に計画がどう実行されるかも検証する必要があります。しかしながら、私の勤務する大学では実習と大学教育が連動していないので、実際にどのような授業を彼らが行なっているかを確認することまではできません。こうした限界はありますが、この課題を通じて、「気づき」を得た自分がどう、何を変えていくかを確認してもらうのです。

オーストラリアでは現場の教員に向けて多文化主義や反人種主義的教育を紹介するリソースが限られていると感じています。この点で、米国ミルウォーキーにあるRethinking Schools はそのようなデータベースを開発していて参考になります。Rethinking Schools http://www.rethinkingschools.org/index.shtml
実際、学生が課題としてやってくる授業計画書の「多文化化」を見ても、質の高いものが数多くあります。これらをデータベース化して一般に公開するだけでも、州の定めるカリキュラムの範囲内で多文化教育をいかに実践するのか、多くのアイデアを現場の先生に提供できると考えています。


アクティビズムとは
1.自分の社会的立ち位置を離れて、「他者」のそれから物事を見る想像力とそれを基にした行動。同じ社会の中の存在していても、自分とは民族・階級・ジェンダー・セクシュアリティーという点で社会的立ち位置の異なる「他者」、第三世界の人々という「他者」、将来の世代という「他者」(広田照幸)の視点から現状を批判的に見て、改善するべく行動を起こすこと。
2.多文化主義教育のめざすところは民族的出自に関わらず、教育の機会とその結果の平等を達成すること。特に文化的承認の正義が大切だと思います。実際に平等が達成されたということの結果として現れることは何なのか。具体的な指標をもつことが大切。目指したい未来の指標を共有できるといいですね。

2.アクティビズムについてのバリアは何か
3. 私たちになにができるか?
教員養成プログラムにおける授業内容へのNSW州政府の統制は年々強くなっています。わたしの授業内容も州の教育目標とどのように関連しているかを示す必要があります。NSWITという州政府の教員養成の許認可委員会が規定する「文化的多様性」という項目に、わたしの授業は対応しています。しかし、州政府が求めているのは、あくまで書類上における規定の遵守であって、実際の授業内容まではコントロールできません。教育実践には、つねにこの相対的自立性が保障されているのだと思います。そういうわけで、わたしの授業では、おそらく、州政府が求めている以上のこと、それもかなりラディカルな多文化教育を実践しています。州の目標は「文化的多様性に関して教員養成の学生をSensitiveにすること」程度ですから。権力構造や白人性の問い直しのような私が教えている事は、当然州の規定にはありません。

これは日本の教育基本法についての議論でも同じですが、大きな方針の中で、現場の教員ができることは幅広いと思います。先の基本法改正を指して、「国家主義的になった」「全体主義的になった」と言う人々もいますが、そのような偏狭な国家主義的な文脈だけが唯一の解釈でしょうか? わたしはナショナリズムがなければ民主主義もないと思っているので、「愛国心」や「郷土愛」や「国旗国歌」の問題だって、そこに民主的な可能性を読み取ることは可能だと考えます。つまりナショナリズムをどう飼いならして、民主的に資するものとして活用できるかを問うべきです。「愛国心」、「郷土愛」、「国旗国家」を国家主義的な文脈から取り外して、より民主的なそれに位置づけなおす、つまり、保守的政治勢力により進められた一連の改革を換骨奪還することが、現場を含めたあらゆるレベルで可能だと考えますし、そこにアクティビズムの可能性があると信じています。

by ead2011 | 2011-08-15 19:30 | 教育的アクティビズム