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松波めぐみさん 1/2 (財)世界人権問題研究センター

*2012年1月15日加筆修正(まつなみ)
2012年12月28日 午後0時半から午後2時半 約2時間

松波めぐみ (財)世界人権問題研究センター
http://ericweblog.exblog.jp/14416028/http://ericweblog.exblog.jp/14416028/
その他、略歴についてはFaceBook 参照
http://www.facebook.com/profile.php?id=100000893760617

インタビュアおよび記録起こし: 角田尚子

1.活動家としての背景は何ですか?
2.「気づきから行動へ」、行動変容、アクションに結びつくための教育に求められるものは何でしょうか?

1.活動家としての背景は何ですか?
■人権活動へ(23歳~)
まず大学時代は、何もしていませんでした。きっかけはわりと明確で、20年前、普通に会社員をしていた23歳の時、母親がパタッと亡くなってしまったのです。まだ59歳でした。その時、それまでずっと母と向き合うことを避けて来ていたことに気づいた。向き合わざるをえなくなった。
母親は熱心なキリスト者でした。しかも保育士をしながら、子どもを育てながら、40代で思い立って牧師を目指して勉強し、7年かけて牧師になった人です。倒れた時、牧師になって10年もたっていませんでした。
私も子どもの頃は教会に通っていましたが、中学生の頃からキリスト教に疑問を持ち始め、教会に行かなくなりました。両親は信仰をもってほしいと思ってるのはよくわかるけど、どうしようもなかった。教会に行かないことをどうこう言われたことはなかったけど、家の中に緊張関係がありました。息苦しくて、そこから逃げたいと思って、東京の方の大学を選びました。大学時代はのびのび過ごし、もう大丈夫だと思って、Uターン就職で実家に帰りました。ところがその1年後に母の死です。くも膜下出血で、倒れてから一度も意識が戻らず、何も話せないままで。そりゃショックでした。お葬式の時、信者の人たち、友人知人がたくさん来て、母親に感謝する人、「まだ牧師としてこれからだったのに」と言う人も多くて。母は慕われていたと思います。直接は何も言わないけど、みんなが私について、「めぐみちゃんが信仰を持ってくれたらいいのに」と思っているのは嫌と言うほど伝わってくる。もちろん母親もそういう気持ちだったでしょうしね。すごい重圧でした。いっそキリスト教の信仰をもてたら、「いっそ信じられたら楽だな」と何度思ったかわかりません。でも、どーーーしても違う。何が違うのか。
そこで「じゃあ、わたしの信念は何だろう?」と考えるようになったんです。当時、コンピューター関係の会社に勤めていて、週休2日で、大学時代からの趣味もあった。一見立ち直ったように見えながらも内面はぐちゃぐちゃ。「自分は何を大事にして生きたいのか?」と問うようになった。否応なく、向かいあわざるをえなくなった感じです。
自分が何をしたいのか、それを探すために、片っ端から新聞記事のイベント欄に目を通して、目についたものにふらふら参加していました。何に心を惹かれたかというと、共通しているのはどうやら「人権」らしいと気づきました。またその悩んでいた時に、たまたま大阪の有名なアムネスティの活動家、恒成(筆名は阪本)和子さんが書いた『なんでアムネスティ』という本に図書館で出会いました。アムネスティというNGOのことも何も知らなかったんですが、その本は面白かった。「内面の自由」ということが私の中でピンときました。アムネスティは人権NGOですが、特にどういう人たちの救援をしているかというと、「思想信条や、それを表現したために、捕えられたり拷問を受けたりしている人」なんですね。そういう被害者のために、ごちゃごちゃ雑多な市民が、(被害者が)自分の思想や宗教と違っていても、何の利害関係もなくても、その人たちの自由と人権のために「手紙書き」等の市民ができる方法で行動する。それが巡り巡って自由な、人権が尊重される世界に近づいていく…というのがアムネスティ活動ですね(世界情勢の変化もあり、現在は少し違いますが、1990年代前半当時)。
自分が「信じる、信じない」で苦しい思いをしたので、「良心の囚人」が気になったんですね。もちろん私は人権侵害にあったわけじゃないけど、「内面の自由」がないような感じで苦しい思いをした。アムネスティでは、「被害者の誰々さんと同じ考えだから、共感するから」支援するのではない。ただ「その人がその人であることによって自由を奪われる、それはおかしい」ということで、国境も文化も宗教も超えて市民が連帯する。そこになんだか、救いを感じたんですね。観念的に聞こえるかもしれないけど、「自分を解放するために」参加していた、と思います。
思い切って会員になって、ニュースレターをとって、「誰々さんを釈放してください」という手紙を書く。でもそれだけじゃ物足りないので大阪の、当時中津にあった事務所にも行きはじめました。そこでいろんな会員さんと出会い、おしゃべりするのが楽しくなったのも「はまった」理由ですね。よくあることだと思いますが。
ところでアムネスティの活動は日本ではなじみにくいですよね。メジャーにはならない。国際的にそこそこ有名といっても、近年も会員が減り続けているし。やはり具体的に「△△の子どもたちが学校に行けるように」とかの方がウケますよね。わかってもらいにくい。しかし、その活動を通じて、新聞にもほとんど載らない世界の情報を知っていきました。90年代当時、ホットなテーマはいくつもあったわけですよね。ベルリンの壁が崩壊した後の旧東欧地域での紛争とか。でもソ連のチェチェン侵攻、アフリカや南米の名前も知らない国でも、ものすごく深刻な人権侵害がある。ひたすらクールに情報発信をしている。(幽霊会員になっている今でも、ああいうことにふれたのは良い経験だったと思っています。)
そうそう、私、一つに絞れないと思っていたんですよ。市民活動やNGOには、日本の中の「この問題」「この国のこういう人たちを支援する」という活動もあるけど、私は特定の国や場所に絞れないと思った。「ここだ!」と決められないというか。でもアムネスティの活動は、思想信条や表現の自由を守るということで、いろいろな社会活動をしている人々の下支えになるような活動だと思ったんですね。内面の自由を守るということは、一人ひとりの内面の自由を守り、活動の基盤を守ることなのだと。
当時、中津にあった事務所に出入りしていた人たちで、アムネスティだけをやっている人はほとんどいなかった。地域で、あるいは誰々さんをどうとか、具体的な運動を一方でしながら、他方でアムネスティもやっていた。いろいろな情報があり、わたしの悩みを聞いてくれる大人の人もおり。いろんな年代、職業の人と話すのも楽しかった。そんなわけで、会社の帰りに事務所に立ち寄るのが楽しみだった時代がありました。
■人権教育へ(27歳~)
「教育」に興味を持ったのは、27歳の時です。阪神淡路大震災があった1995年、私は働き始めて5年目でした。それまで会社員しながらアムネスティの活動をしていて、それはそれでよかったんだけど、もやもやしていました。震災の年、でも実はそれがきっかけでもないですね。ちょうど95年4月から大阪YWCAで開講された「国際関係開発学科」というコースがあって、おもしろそうだったので、退職して入学しました。ちょっとは貯金もできたし、やりたいことにたくさん時間を使いたいと思ったのです。国際的な社会問題(ジェンダー、開発、宗教…)、あるいはソーシャルワーク、企画のやり方などを集中して学ぶコースで、金香百合さんがはりきって作らはりました。断片的に知っていたさまざまな問題について、基本的なことを学べたのは良かったです。同級生たちも意欲的で、楽しかった。いまもつながりがあります。頭でっかちなアムネスティの活動家(笑)とは違う感じで。
その95年の夏休みに、アムネスティの友人の企画で、フィリピンへのスタディツアーに参加しました。初めての東南アジアです。ゴミの山、貧困層のコミュニティを訪れたりホームスティをしたりという普通のフィールドワークに加え、「演劇を用いた人権教育ワークショップ」がありました。体を動かしながら、人権侵害を受けるリスクの高い高校生や農民も参加して、ワークをしながら、Empowermentする。そのやり方や考え方に関心を持ちました。人々の元気さ、フィリピンの空気そのものにも刺激を受けましたが。
ちょうどその頃、アムネスティの活動に迷いがあったんですね。手紙書きはいいとして、たとえば海外からのゲストを招いて、大阪で中身のある講演会をしても、来る人は「すでに関心のある人々」で、10数人、多くても何十人。知識を深めて、さあ、人権状況の改善のために手紙を書きましょう、と。でも、これじゃ社会に広がらない。もともと高学歴で暇と知識のある人が知識を増やすだけという気がしてきました。
たとえば当時インドネシアに占領されていた東ティモールのことも、救援活動で取り扱うのだけど、キャンペーンでは「インドネシアにおける人権侵害」の数々を紹介するということになる。それはそれで大事だけど、たとえばインドネシアと日本にはODAや経済的搾取のような問題があったり、歴史的には戦争加害のこともあったり。でもアムネスティのキャンペーンをやるとしたら世界共通、淡々と「こういう人権侵害が」。何か思考停止?みたいな感じがして。日本にいる市民が、このあたりの国に関心を持つとしたら、もっと先に知るべきことがあるんじゃないの?とか、フィリピンに行ってからいっそう感じるようになりました。すべての問題はつながっているという実感をもつようにもなり、社会を変えていくために何かしたい、どうもアムネスティの活動だけでは飽き足らないのは確かで。もっとやりたいことは何だろう?と。
じゃあ何をする? といっても、よくわからないんですね。専門学校での一年が終わって、でも何か学んだことを生かせる仕事ができるわけでもない。とりあえず派遣で働き始めて。結局2年半、派遣で働きました。そのうちだんだん、「自分の専門性はこれだ」というものを持って活動したいと思うようになりました。
フィリピンでの経験から、あるいはYWCAでの経験からばくぜんと「教育」に興味をもちはじめたれど、私は学校は大嫌い。そもそも、大学時代も文学部にいてまわりは教職科目をとってたけど、自分はそれもとらなかった人間です。だけどYWCAで受けたような授業、アムネスティで体験したような大人の学びに関心を持っていました。やはり、自分が「学んで良かった。変わってきた」という実感をもっていたからですね。
まわりの人々(たとえば派遣で働いている自分の職場)を見ても、もっときっかけがあれば、何かできる人がいるじゃないか。潜在的にいいものを持っている人はたくさんいる。これまでと違った人を巻き込む、学びを通して、社会を変える。そういうことに関わってみたいと思いました。自分が参加して、学んで良かったという経験が、やはりベースにありますね。

by EAD2011 | 2012-01-16 12:39 | 教育的アクティビズム