■障害学・障害者運動へ(31歳~現在)
それで、社会教育や人権教育が学べて、社会人を受けて入れている大学院ということで探して、大阪大学人間科学部の平沢先生のところを見つけました。先生のことを特に存じていたわけではなかったんですが、その当時の地球市民教育センターが主催していた「アクティビティ・コンテスト」の審査員などもしておられたので名前は知っていました。
一度落ちて、二回目の挑戦で受かって、1999年の4月に大学院生になりました。31歳でした。社会教育のことは何も知らなかったので、やはり少しは勉強して入りました。入ってみたら、教育社会学など、おもしろい授業もありましたが、社会教育はどうもピンとこない。あと、人権教育を日本(特に関西)で学ぶとなると、同和教育/解放教育の歴史や実践がぶあつくあるわけですが、私自身はそれがよく理解できなかった。自分で良い同和教育をまったく体験していないし、学生時代関東だったためもあると思いますが。部落問題じたいがなぜこれほど突出して扱われるのかわからなくて、そのあたりのことを理解するには時間が必要でした。(少しずつ学んだこと、それからずっと後になって、旧同和地区の隣保館で3年間バイトして、ようやくわかってきた気がします。)
ともあれ、せっかく大学院に入ったのに自分のテーマを決めかねていた1年目の夏に、障害者の問題にごごごごっとはまりました。
それまで、(24歳の時に出会った)障害を持っている友人が一人いて、その友人とのことはとても大事だったのですが、自分のこだわりというか、活動や勉強とはとりあえず切り離して考えていました。
それが、大学院生1年目の1999年、ちょうどそのときは日本で『障害学への招待』という本が出たばかりだったんですが、その本に出会ってとても大きなショックを受けたんです。「障害学」というのは、それまで「障害」に関わる研究は障害者自身の視点にたっていなかった、障害者を客体にみて、治療や処遇、社会福祉を与えてきたけど、それは抑圧的なものであった!と告発するところから出てきました。障害者運動の中で展開されてきた主張や考え方を整理し、実践に生かしていこうという志向をもっていました。社会を変えるため、人の認識も変えなきゃいけない、と。いちばん基本になるのは「障害の社会モデル」という考え方ですね。障害者が苦労したり、しんどい目にあうのは「体に障害があるから」ではなく、そういう人たちを排除してつくりあげた社会のしくみ・社会的障壁(制度、法、物理的バリア、偏見、慣行など)が原因だ、という考え方です。それは、私が車椅子の友人と一緒に遊んだり出かけたりするなかで漠然と考えてきたことと見事に一致しました。友人はちょっと実は活動家だったのですが、彼女が話していたことはこういうことか!と思ったり。すごく大事なことを言ってる、と直感的に思いました。また、自分の中でもやもや言語化されていなかったことが、学問として、このように提示されているということにも新鮮味を覚えましたね。私は(大学院を選ぶとき)社会福祉を学ぼうとはまったく思わなかったんですけど、その理由もわかりました。
幸運だったのは、ちょうど日本で障害学の研究が始まったばかりで、これから日本でも、関西でもすすめていこうという、勢いがある時だったんですね。院生1年目だから、学問というものに希望をもっていたところもありますし(苦笑)。
障害学を学び、学ぶ場でもいろんな障害者の人に会い、本を読み、また障害者運動が主張していることを知れば知るほど、これは「社会が障害者を閉め出している」、人権の問題だと思いました。せっかく「障害の社会モデル」という人権に親和的な考え方ができているのに、壁は厚い。とくに「教育」の中で障害学というか「障害の社会モデル」の考え方を学ぶ取り組みがない。。解放教育/人権教育の中にもこの考え方はあまり…無いわけではないけど、ちょっと違うなあと思っていました。だから、障害学と人権教育を架橋することをしたいと思いましたが、それは今も思っていますが、なかなか困難な道のりで、何度も中断しています。
院生時代の障害学の勉強については、英語の障害学(Disability Studies)本を、友人と翻訳して出版することができたり。リバティおおさかで障害学の連続講座があったり、パイオニアの取り組みでしたね。2ヵ月に一度の割合で研究会もやっていました。障害のある人、それも車いすだけじゃなくて視覚障害の人、精神障害の人、障害をもって研究している人もいましたが、鍼灸師やら活動家やら、いろんな人に研究会を通して出会いました。自立生活運動(障害をもった人が自分らしく、自己決定しながら地域社会で生きられるようにしていく運動)の現場をもっと知りたいと思って、重度障害者の介助にも入りはじめました。院生としての生活と、障害者関係の活動や介助、二つの世界を生きていました。
障害学と教育に橋を架けたいと思いながら、なかなか中途半端なものしか書けず、もんもんとしていた時期が長いです。先ほども言ったとおり、「障害とは何か」についてパラダイムの転換(「障害の医学モデル」から「障害の社会モデル」へ)があって、障害者権利条約を作ろうという国際社会の動きがあるのに、日本での「障害」問題の扱われ方はなかなか変わらないし、何をどこから始めてよいのかわからない感じがありました。日本で人権教育を考える時に大きな財産であるはずの同和教育・解放教育の中に障害児・者は出てくるけれど、やはり情緒的なエピソードが中心で、福祉教育と大差ない。人権教育をやっている人の中で、「障害」のことで話せる人はあまりいない。一方で、障害者運動を一生懸命やっている人は、目の前の課題で精一杯なところがある。
ううむ。大学院時代は、論文を書けない院生として、何度も暗黒というか、闇のスポットにはまっていました。人のせいにしたらいけないけど、なかなか「一緒にやろう」と思える人と出会えない。自分もうまく説明できないという感じですね。いったんそれをおいて、フェミニズムをかなり勉強し、「障害者とジェンダー、セクシュアリティ」関係でいくつか論文等を書いていたこともあります。あ、私自身、30代半ばになってやっとフェミニズムの本をよく読むようになって。(20代の頃はあまりピンと来ず。)
へんな話かもしれませんが、「当事者の学問」である障害学を(健常者として)やり始めて、そのあとで、フェミニズム/女性学の本も読めるようになりました。それなりの当事者性をもって、「障害をもたない女性」として考えようとした。ただし、それが一番のテーマになるというと、そうではありませんでした。
40歳でここ(京都の財団)に就職しました。9年間の大学院生活で結局博士論文は書けなくて、経済的にも苦しくなり、つらい時期でした。実は、(これを話すとますますこんがらがるのですが)博士課程の時代、在日コリアンの人権啓発に関わるNPOで週2日ほど、3年間バイトしています。その頃、在日外国人の子どもの教育についての研究プロジェクトにも入っていて、障害学と二足のわらじでしたが、どちらも中途半端でした。時間とエネルギーの限界を感じて、2004年、結局在日外国人の方面は撤退しました。バイト先が破綻し、体調を壊したり、いろいろありました。
そのバイトのあと3年間(2005~2008)、今度は豊中の旧同和地区にある隣保館で働いて、部落問題についてやっといろいろ「腑に落ちて」きたような気がします。この時期は障害者運動でも重要な時期でした。なんだかんだと常に複数の問題に関わっていると、そのおかげで気づくこともありますが、やはりしんどかったのも事実ですね。被差別部落、在日外国人、女性、障害…それぞれの課題の間でひきさかれる。ある運動をしている人たちは、別の運動、別のマイノリティのことを見事に何も知らなかったり、ということを実感するのも日常的でした。
2008年4月に京都に(期限付きとはいえ)就職できて、本当にほっとしました。それからやっと、障害者関連のやりたい活動というか、実践に関われるようになった気がします。2008年秋に、大阪の堺で「アドボケーター養成講座」というのが開かれて、参加しました。これは障害者差別禁止条例を各地で作っていこう、そのためのリーダーを育てるのが目的の講座でした。熊本で活動する、本人も車椅子の弁護士・東俊裕さんがファシリテーターです。全国各地から障害当事者が50人ぐらい集まって。東さんが本気で運動し、仲間に呼びかけている姿に触発されたし、北九州や福井など、各地で運動している魅力的な当事者にも出会いました。
うまくいえないんですが、このアドボケーター講座をきっかけに、「あ、自分も運動していいんだ」と思ったんです。障害者権利条約(障害の社会モデル)の考え方を広めていくということは、研究だけじゃなく実践で行っていく必要がある。それは自分自身の責任でやればいいと気づいた。いままで、障害者の運動に健常者がどう関われるのか、何もしないほうがいいんじゃないかという気分があって、自分を抑圧してきていたことに気づきました。
ちょうどそのアドボケーター講座の後、2008年11月ですが、「障害者の権利条約を活かしていくために、障害者団体のネットワークをつくろう」という動きが京都で起こっていることを耳にしました。矢吹さんという当事者の方が呼びかけていたんですが、その時初めてしゃべったのに、「わたし手伝います」と言って…。その人のことも、京都の運動のことも何ひとつ知らなかったんですが、それでミーティング(事務局会議)に出るようになり、現在に至っています。ネットワーク組織で差別禁止条例をつくる運動を進めるための、事務方の手伝いともいえます。いろんな運動、団体の人と関わるし、折々にトピックもあるし、ほんとに勉強になります。最初5つぐらいの団体だったのが、どんどん増えて、いまは40団体にまで広がっています。2カ月に一度集まり、それより頻繁に事務局会議をして。半年に一回ぐらい大きなフォーラムをしたり、勉強会をしたり。
(マイノリティの運動、反戦や脱原発の運動、どれもそれぞれ違いがありますが)障害者運動が他の運動と違っている面を、時々考えます。多くの場合、発信が団体単位なんですね。デモや集会のような大きなアクションで、ほんとに「一般」の人々の参加を想定していないなあということもよく感じます。20代のときに経験したNGO活動では、自分が関心を持てば、ふらっと参加していた。9.11の後のアフガニスタン侵攻反対とか、イラク戦争反対とか、ガザ爆撃の時とか。でも障害者運動は、「今どうなっていて何が必要か」というのが、当事者・関係者以外にはわかりにくくなってしまっている。これも中にいたらそれが当たり前になってしまうのだけど。もう少し違うタイプの運動があってもいいのにな、とか。2003年頃から、障害者運動ではずっと大きな(切実な)動きが起こり続けているんですけども…。
角岡伸彦さんの本、『カニは横に歩く』で、1970年代からの兵庫の青い芝運動の中心にいた人々の群像が描かれていますけど、とても画期的な運動があったわけだけど、思想として定着していったものがある一方、結局のところ、限られた人しか地域で生きていないということを、しばしば考えます。多くの重度障害者は施設にいて、非常に制約された生活を送らざるをえない。
その人たちにとって「運動」がこんなことを達成したと言っても、何の意味があるだろう。その人たちが「地域に出る」手伝いをする、地道な活動を続けてきたし、今も続いている。でも地域間格差はとても大きい。「地域移行」を本当に進めるには介護保障の制度化が必須だから、ずっと脈々と運動があった。2003年に「支援費制度」が始まり、それまでは使える制度が自治体ごとに違っていた(全くない自治体も多数)のが、全国一律の制度ができた。でも使える介護時間時間数の制限あったり、判定の仕方が実状に合わなかったり…。一つずつ訴えて、早々と制度が破綻した後、厚労省は介護保険との統合をもくろんで、大きな反対を押し切って、2006年に自立支援法を強引に通してしまった。とても簡単には説明できませんが、こうした国内の大切な動きも、そして同時期に障害者権利条約が国連で採択されたことも、NGO時代からの友人や大学院の人たちは知らない。当たり前かもしれないけど、なんでこうなんだろうと思ってしまうことがあるんですね。
障害者権利条約のことは自分の転機としても大事なので、ちょっとお話しておきます。2006年、自分がこれまででいちばん貧乏だった頃ですが、その年の8月に国連で「第8回アドホック委員会」が開催されることを知りました。2002年頃から会議を重ねてきて、いよいよ条約ができる、その直前の会議です。権利条約にとても関心があるけど、なかなか実感がわかない。国連の会議に日本から参加した人のレポートは目にしてきたけど、用語一つとっても難しいわけですよ。権利条約は、今後必ず日本社会における障害者運動(あるいは人権運動、人権教育?)にとって非常に重要なものになるという予感はありましたから、なんとかそれを作っている現場を見て、空気を吸いたいと思ったんですね。私はどこの組織も代表していない、自立生活センターの事業所に登録している一ヘルパーです。でも、誰でも参加できると聞いたので、友人のつてを頼って、DPI日本会議の人に連絡をとって、申し込んでもらいました。当然ながら参加費、渡航費、滞在費、すべて自腹です。ニューヨークに行ってみたら、最終的に40人ぐらい来てたんですけどね、日本から。バリアフリーの高級ホテルに泊まっている人たちのかたわら、一番安いドミトリー(6人部屋)からゴム草履で国連に通いました。2週間弱もニューヨークに行けば、それでも蓄えをくいつぶすような旅でした。もちろん行って良かったですけど、当時はわからないことだらけ、知らない人ばかり、私がそこにいるのは当然でもなんでもなくて、不安でした。
ともあれ世界中からさまざまな障害種別の当事者が集まって、NGOとしての発言やロビイングをしている。政府代表の中にも障害者がいる。委員会のときだけでなく、会議場の内外でさまざまな細かい調整が続けられていました。聴覚障害の人のための文字放送のプレゼンがあったり、日本政府と私たちNGO側との意見交換の場があったり。いろいろな利害の衝突や難問をクリアする努力が深夜まで続けられる。ああ、こういう動きの中で条約ができるのかと。日本から代表で行っている障害当事者の人たちの必死の活動にふれて、条約ができることがどれほど切実に必要なことなのかを実感する出来事もありましたね。また、私が「これはすごく大事なことだ」と直感して学んできた障害学の、「障害の社会モデル」が権利条約には埋め込まれている。これは研究者や専門家ではなく、障害者当事者のとても大変な運動のなかから出てきて、共有されてきた考え方です。それが人権の条約の柱になるまで高められた、ということじたいにエンパワーされます。いや正直いうとその後じわじわと、アドボケーター講座等を経て思っていることです。
障害者権利条約にまだ日本は批准していませんが、3年以内にはするでしょう。その考え方、なかみをどう普及していくか。これを人権教育としてどう行えるかを考えたい。それは他にやる人がいないと思っています。「障害」の世界と人権教育が、人脈としても「切れている」実態がありますから。
その昔、もう20年近く前ですが、アムネスティのボランティアをしていた時、「子ども権利条約の翻訳創作コンテスト」を恒成さんの発案でやったことがあって、当時ボランティアとして手伝ったことがありました。そういうのも一つの案だし、いろいろな方法で権利条約のなかみを広め、条約を道具として社会を変える運動につなげられたらいいな、と。まだ妄想ですが。
障害者の運動は日々待ったなしというところがあります。忙しい。介助体制は、いつ崩れるかわからない。施設から出たい人が家族に反対されたり。家探しで苦労したり、交通機関の乗車拒否に遭ったり、就職しても簡単にクビになったり。目の前のことがいつもある。誠実にやっている人たち――障害当事者でも、かれらと一緒にやってきた人でも――の磨かれたセンスや確かな人権感覚はほんとすごいと思う。本人は「人権」とか意識してないだろうけど。本当に尊敬できる人は現場にいると、特に京都の運動にふれるようになってから強く思っています。だからこそ、そのすごい部分を普遍化する言葉を探したいとも思っています。学ぶことがエンパワメントになるような学習を構想するためにも。
2.「気づきから行動へ」、行動変容、アクションに結びつくための教育に求められるものは何でしょうか?
非常勤講師としてもっている授業のなかで、障害当事者をゲスト講師に呼ぶなど、種まきはしていると思います。だけど授業だけの関わりという限界がある。本当はフィールドワークに連れていくとか、じっくり話すとか、いろいろなことができたらいいのにと思う。
社会教育関係や公務員対象の研修で、「障害者と人権」みたいな話をしにいくこともありますが、どこまで伝わったかなという悩みは常にあります。権利条約の話もしますが、少なくとも「1970年代以降、障害者運動がこの社会をどう変えてきたのか」、それでも「同時代を生きている障害者からこの社会がどう見えているか(最近の差別事例等)」を伝えることを忘れないようにしたいと思っています。それと「障害の社会モデル」の話は絶対にやりますが、どこまで自分との関わりを考えてもらえるかなあ。社会の中に障壁があるから、社会で生きている自分が無縁なはずないんですけどね。
かくたさんがおっしゃっていた「教育的アクティビズム」ということばは、自分のめざしているものにぴったり来たことばだった。私の場合、いちばんやりたいことは何だろう?と模索してNGOの活動をして、そこから「社会を変えるには教育だ」と思って移っていったわけで、アクティビズムの要素のない教育にはあまり興味がないので…。運動への参加の中で学ぶことも関係があるのかな。とにかく、自分が学んで変わって、エンパワーされることと、社会をよりよい方に変えていくことが同時に起こるような、そんな学習をつくりたいという野望は手放さずにおきたいです。
インターネットで検索しても、この対話のブログだけしかひっかかりませんが(笑)、これから必要なことばだと思います。
インタビュア雑感
とても刺激的なお話だった。運動の当事者性を獲得することは、何によらず大変だが、「運動へ」「教育へ」「障害者の権利へ」という三つの契機を通して、自分との和解を果たして来た道のりを、語る姿勢が、ゆるぎない。
録音には残っていないが、「いまのあなたの姿をおかあさんが見たら、喜ぶね」と言われたことがうれしいと、最後におっしゃっておられた。
障害者の権利条約が描き出したパラダイム・シフトは、すでに、子どもの権利条約が提示していたパラダイム・シフトでもある。「保護を受けるのは主体性の発揮のためである。」子どもが保護を受けるのはそれが子どもの権利であって、保護されているから主体性を否定されるのではない。それは「弱者を抱えている」時の女性もそうだ。保護を受けているからといって、主体性の発揮を阻まれるものではない。男性に都合のよい「女性」というカテゴリーを生きるのでもない。弱者を引き受けていない男性の基準に合わせるのでもない。
障害者も、健常者の基準に合わせるのでもない、「障害者」というカテゴリーを引き受けさせられるのでもない。一人ひとりの主体を十全に生きる、そのために、社会的ケアがある。
わたしが「女性を縛る「夢」の足枷」と表現したものは、障害者にも存在する。のだね。
http://ericweblog.exblog.jp/14254665/
「近代」が基盤を置いて来た「夢」の数々から、さめることを手伝うのが、生涯学習、生涯教育なのかもしれない。さて、学校教育は、いかがしたものか。
○ステップ1 考える練習をしよう。
○ステップ2 違う未来があってもいいはずだ。いまのどこかがおかしい。
○ステップ3 越えていけ、わたしたちを。近代の人間化と教育の人間化。
かなあ。
最後は書き起こしきれない対話になってしまったけれど、これまで「環境教育者の二つの帽子」、すなわち、モデルとしてのアクティビスト、環境保護運動をする人としての帽子と、教育者として一人ひとりが考えることを支援する立場の帽子と言って来た。そこに、実は「研究者」としての帽子も、存在するのだということを、学ばせてもらった。「教育者」は「活動家」でもあり、「研究者」でもある、三つの帽子。
ちょうど読み進めていたオギュスタン・ベルクの『風景という知』を思い起こしながら、「ヒリヒリする」と表現した、松波さんが自分自身の中に作って来た風景を感じていた。
教育は、景観づくりなのか、それとも風景づくりなのか。
日本という風土の中で、新たな風景を見たいと、そんな気持ちがした。