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家本めぐみさん CAPセンター・ジャパン理事 トリプルP理事

CAPセンター・ジャパン理事
トリプルP 理事        家本めぐみさん
2012年4月15日 インタビュー実施

1.トリプルPの活動について

トリプルP Positive Parenting Program前向きな子育て支援プログラム
の理事を2005年からしています。2003年ぐらいから勉強会などをしていました。そして、10数名の仲間でオーストラリアに日本から「養成講座」に2005年に参加したのがスタートです。
トリプルPは、オーストラリア、クイーンズランド大学のマシュー・サンダース教授が30年前に開発したプログラムです。世界の他の国でも取り入れられていて、イギリス・カナダ、オーストラリアなどでは、国が導入のバックアップをしています。これらの諸国では受講は無料なので、教員もたくさん受講しています。
プログラムは、8セッション、毎週一セッションを続けて受けてもらいます。その内の、3回は、個別の電話セッションで、15分ぐらいです。その他のセッションは2時間程度、17名程度が、一度に受講できます。人数は、ファシリテーターの能力にもよるのですが、個別対応などもあるので、20名程度ではないでしょうか。毎週、続けて受講してもらうことが条件です。
主に、問題行動を抱える子どもの保護者を対象に実施していますが、このプログラムのよいところは、対象となる保護者、親を限定していないところです。「すべての子育てにかかわる人々」にとって有益な子育てのスキルだということです。
もう一つ、このプログラムのよいところは、アセスメント、評価がしっかりしていることです。わたし自身、実践して、本当に受講した方のスキルが向上すること、態度や姿勢が変わること、自信がつくことを実感しています。
スキルは17にまとめられています。「簡単なルールをつくる」とか、「子どものよいところをほめる」などです。
よく思うのですが、子どもに対する対応で、相手が大人であれば、決して言わないようなことがあると感じます。なぜ、子どもに対しては、通常、大人同士では決して言わないようなことも言うのでしょうか。子どもは大人の対応から学んでいるというのに。不思議です。
まだ、日本にはトレイナーがいないので、オーストラリアのクイーンズランド大学に留学した経験のある日本人の方二人が、来日して、年に二回、ファシリテーター養成講座を開いています。受講料は18万円と、決して安くはありません。3日間プラス実践評価のための1日の講座です。各回20名限定なのですが、キャンセル待ちが出るほどの人気です。すでに300名ほどの有資格者がいます。

和歌山では、児童相談所の職員の方が受講したり、あるいは児童相談所に来ている保護者対象にプログラムを実施したりしています。どの会場に参加してくれる親も子どもへの対応方法さえ知れば自身の力を発揮できることを、実感しています

2.CAPの活動について

CAPの活動は1999年から始めました。エンパワメント関西で田上さんたちと一緒に活動していました。2001年から和歌山で活動するようになりました。和歌山には4つのCAPグループがあったのですが、現在は、2団体が活動しています。タドル和歌山は現在14名ほどで活動しています。タドルというのは「よちよち歩き」という意味で、まあ、ぼちぼちやっていこうよ、という思いでつけました。
現在、予算が削られる傾向があるのは和歌山も同じで、ワーク数は減っていますが、年に120回ぐらいは実施してきました。
取り組み出したきっかけは、わたしの子どもが通う保育園で、虐待を受けていた子どもがいたことです。なんとかしたいと思いました。
そのころ、和歌山市の議員をしていた方が、CAPを紹介してくれて、いっしょに受講し、4名の仲間で始めました。パートでしていた仕事を辞めて、専従で取り組みました。トリプルPを始めたのは、親支援と子ども支援は両輪だと思っているからです。たくさんの支援の仕方があって、親がその中から選ぶことができるのが大切だと思います。

3.教育の現状と、CAPやトリプルPなどのプログラムの効果について

トリプルPを実施していて、「子どもはたたかなければならない」とか、兄弟ゲンカは「止めなければならない」とか、子育てについて、さまざまな思い込みに縛られていることを発見します。「たたかなくてもいいんだ」という驚きの声が出たりするということです。
大人には言わないことを子どもには言う。そのような表現の中に「子どもに対する尊重の気持ち」が薄いことを感じます。それは学校においても同じです。
「あんたさえ居なければ」とか、「死ねば良いのに」とか「邪魔や」とか。娘が高校生の時、友人たちと話していて、そんな言葉を言われたことのない子の方が、少数派だったのです。
教員も同じです。「忙しい」というのが、子どもへの対応が欠如している理由の一つなのでしょうが、子どもと向きあえていないと思います。一言で言えば、対応が「鈍感」だなと思うのです。大人の一言一言が子どもを育てているという自覚がないように見えてしまいます。もっと、子どもとの対応を大事に考えて欲しい。

トリプルPにはDVDがあるのですが、それを見ると、多くの親が「ああ、こんなのあるある」と、オーストラリアの事例にも関わらず、共感するのです。そして、そのような対応から、子どもが何を学んでいるかを明らかにし、問題点を整理し、どうすれば、子どもの問題行動を解決できる対応になるかを考えているのです。

学校での教員の行動も、一つひとつ、このように検証すべきだと思います。
トリプルPが明らかにしているように「問題行動」は子どもが注目されたいというメッセージなのです。問題行動に注目することが問題解決につながるのではなく、「計画的に無視」したり、あるいはいいよい行動を増やすための手だてを考えたりできるはずです。

悪いことは眼につきやすいのです。いいところは、探さないと、わからない。当たり前の中に埋もれているからです。悪いことに焦点を当てるということは、ネガティブに時間をかけるということです。子どもの中にあるさまざまなこと
の中から、ネガティブにだけ焦点をあてる。対応の時間がむだになることも・・・

子どもをよく観察して、具体的にほめること。描写的にほめる。そんなことも、学校教育の現場にも応用できると思います。

遠隔操作をしない。近づいてはっきりと指示を出す。やってほしいことを伝える。など、学校現場が学べることもたくさんあります。

そのような対応のかわりに「いやみ」を言うなど、大人としてはありえないことだと思います。

基本的には、肯定的な関わり方をすることが子どもを育てます。その関わり方がクラス全体を穏やかなものにするはずです。そして、対応する大人のイライラも減らすことができるのです。

4.教育を変えるヒント

トリプルPのアプローチは、問題解決的な認知行動療法の考え方が基盤にあるとものだと思います。行動日記をつけたり、タリーシートという計数表を記入して行動のパターンをふりかえってみたりするのです。そこから「なぜ月曜日に問題行動が多いのだろうか」と考えることで、原因がかわり、手だても17の技術の中から応用して実践してみることができるようになります。それを自己統制力と呼んでいます。

クイーンズランド大学にはFamily Support Centerというのがあり、地域への子育て支援プログラムを推進しています。

国単位で取り入れているベルギーでは、一昨年トリプルP学会が開かれました。国として取り組み不適切な関わりを減らす、そして親を支援することの重要性を感じました。

子育てにおける大人の対応のいいパターンを、子育てにかかわるすべての大人が習熟すること。子どもに対するエンパワメントのCAPと並んで、必須だと思っています。

行政とともに取り組むことで、支援に厚みと深みが生まれることも実感しています。民間団体やボランティア、プログラムなど、多様な選択肢が組み合わされて、推進されるといいですね。

# by ead2011 | 2012-04-17 09:11 | 教育的アクティビズム

萩原なつ子さん、立教大学、インタビュー

萩原なつ子さん、立教大学、インタビュー

2012年2月1日 水曜日
於: 立教大学 13:00-15:00

インタビュー項目

1.昨年出された「大学等及び社会教育における消費者教育の指針」のガイドライン策定の背景と経緯、これからに期待すること。
2.フィンランドなど、海外の教育改革の動向と、日本への影響
3.日本の教育における「市民性教育」の現状と課題

インタビューは、録音し、記録起こしした原稿について、了承が得られたものをブログで公開する。
この連続インタビューを通して、何をなすべきか、教育研究者や民間教育団体ができることは何かを探りたいと願っている。

インタビュー記録

1.文部科学省の消費者教育推進について

文部科学省(生涯学習政策局男女共同参画学習課)は、2010年度に「消費者教育推進委員会」を設置し、大学や社会教育において消費者教育を推進する際の「大学等及び社会教育における消費者教育の指針」について検討して作成しました。メンバーには消費者団体、教育委員会、消費者庁、大学、有識者など多様な方々が参加しています。私は推進委員会のメンバーとして、主に社会教育における消費者教育について検討しました。消費者教育を推進するための担当部局を文部科学省に設けて、委員会を設置したことは画期的なことだと思います。
指針作成に際しては、「大学等及び社会教育における消費者教育に関する取り組み状況調査」を行いました。大学の消費者教育の実態はどうかというと消費者被害を防ぐためにガイダンスの中で取り入れられているところは多いのですが、消費者教育という科目が特に設けられているところは必ずしも多くありません。それぞれ、担当の先生方の関心の範囲で行われているというのが実態です。社会教育の中ではこれまでも公民館や消費者センターで講座が開かれていますが、指針では、さらに充実させるために多様な主体との連携・協働の必要性を示しているのが特徴です。
国際比較という視点から、私はフィンランドと韓国に調査に同行しましたが、韓国は日本の消費者政策をかなり参考にしていました。フィンランドでは、OECDのガイドラインを参考にしながら、自分たち独自の推進体制で、取り組んでいます。大きな流れとしては、持続可能な社会の形成の担い手としての判断力のある、社会変革の「主体」としての市民を育成するという、いわゆるCitizenship Education(市民性教育)に基づいた消費者教育を志向していることが確認できました。それからフィンランドでは、教員が全員大学院修了以上で、日本でいう教育実習がとても長く、多くの先輩教員、メンターのサポートを得ながらOJTで教師として育成されていて、驚きました。それから教員は、それぞれ教科書を自分たちで作ることもできて、教科書をつくるためのサポートをするオンライン上のサイトなども豊富にありました。そのために、新しい教育内容をすぐに現場に取り入れられるようになっていました。それから、日本の社会教育における生涯学習というのは、22歳からを対象としているようなのですが、それに対して、フィンランドでは、「一生涯学習」なのだと強調されました。教育費は無料なのですから。そのかわり、税金は高い。しかし、教育は公共が本来やらなければならない部分だということで、教育費は無料です。フィンランドの先生に、日本では子供を大学に行かせるために、親が貯金をするそうですね?!大変ですね、と言われてしまいました。日本は本当に教育にお金がかかりすぎです。
私は1970年代に公害問題や食品添加物や農薬問題に関心を持ったことから、特に食の安心・安全に関するさまざまな活動に参加したり、調査・研究も行ってきました。チクロ、サカリン、AF2の問題など、最初は食品の問題から入りましたね。当時から、そうした問題を追及する担い手は主婦を中心とした女性でした。性別役割分業の中で、家族の安心・安全を預かる立場に置かれていたから、そういう問題に気づきやすかったわけです。今の女性たちが中心ですが、主体とするとNPOや消費者センター、公民館、大学、弁護士会、企業など、その担い手は多様になってきています。
現在大学では環境教育も担当していますが、持続可能な社会の形成という点で、消費者教育と環境教育は密接な関係があります。消費者教育というと、「だまされない消費者」「サラ金や金融問題」など消費者の権利や消費者保護、金融教育に関する教育というイメージが強いのですが、実際は、1980年代に登場したグリーン・コンシューマーやエシカル・コンシューマー(倫理的消費者)の概念のように、環境に配慮した商品を選択するなど、持続可能社会のために行動できる消費者を育成するという側面も重視されてきました。指針が作成された背景には、幅広い分野にまたがる消費者教育を一度整理して、全体を俯瞰したガイドラインが必要だという機運が高まったからだと言えます。
 2011年度は、家庭教育部会が設けられて、家庭における消費者教育をテーマに、「親子で学ぶ消費者教育の手引き」を作成しています。親子で遊びながら一緒に消費者学んでもらおうという狙いもあります。家庭で親子が遊びながら消費について学ぶための教材開発をしていて、「おつかいすごろく」を作成しています。実験的に11月と1月に親子を対象としたワークショップを開催しました。いずれ「おつかいすごろく」は、多くの人に活用してもらうために文部科学省のHPからダウンロードできるようになると思います。

2.萩原さんご自身の「教育的アクティビズム」の背景は?

わたしの祖父母は小学校の教員で、クリスチャンでした。4人の子供たちには聖書に出てくる名前を付けていて、私の父には「眞理夫マリオ」と命名しています。父は孫たちから、「スーパーマリオ」と呼ばれていました(笑)。
祖父は、父が6歳の時に他界しているのですが、4人の子供の「子育て日記」をつけているのです。貴重な資料です。大正デモクラシーの影響からか、妻や子どもとの関係を大事にしていた様子が書かれています。私のライフワークとして、この日記を世に出したいと思っています。祖母も日記をつけていました。山梨県の女教員組合の委員長を務めていたような人で、当時から性教育の必要性や男女平等を説いていました。私はおばあちゃん子でしたから、とても影響を受けています。「生涯これ学習なり」が口癖のおばあちゃんでした。
父は第二次世界大戦に陸軍で中国へ従軍しています。自分の生涯の汚点だと言って、戦争中のことは、一切語らなかったですね。それが子供たちにとっては、逆に大きな平和教育だったと思います。
父も母も、私たちにはああしなさい、こうしなさいとか、これはだめというようなことは一切ない、育て方でした。子どもに対して、キリスト教の洗礼を強制もしませんでした。本人の意思を尊重してくれていました。市民性教育だったかもしれません。父も日記を書いています。昭和24年から始まる日記の最初の一行は、「これからは男女平等の時代である」です。親子三代、遺伝子を感じますね。

3.教育的アクティビズムについて、いまの教育に求められるものは?

学校というところは、「拡大生産者責任」を問われるべきだろうと思います。どのような人材を輩出するかについて、責任を持つべきです。ただ、学校だけでは変革が難しい。家庭教育や地域における教育も重要だと思います。
教育は、もっといろいろな主体、多様な人がかかわった方がよいと思います。
それから、教員養成のあり方を抜本的に変えることも必要ではないかと思います。最近では社会人経験の方も途中から教員になれるようになっていますが、大学の特任、客員教授制度のように、もう少し専門性のある人を小中高の現場に配置できるような仕組みも検討されてよいのではないでしょうか。
学校をネットワーク型にすること。生徒が地域を元気にする、地域が生徒を元気にする、地域の学校が地域を担う人材育成を行なう。そんな実践ができればいいと思います。
わたし自身は、社会人対象の大学院で教えています。学生の職業は非常に多様です。ストレート組もいます。そこに元校長先生や元町長経験者、会社社長などが入学してくることもあります。2年間という短い期間ですが、その間多様な人々と関わり、学ぶことによって、大きく変わります。自分がいかに狭い世界にいたか、考え方が固定化していたのかがわかるようです。顔つきや考え方が変化する彼・彼女たちを毎年見ていて、社会人大学院の社会的意義を実感します。現場が動いているからこそ、大学も変わってきた。生涯教育の考え方も変わらざるを得ないと思います。フィンランドのように学びたい時が学び時というような「一生涯学習」を可能にする教育・学習環境づくりが求められているように思います。


報告書の入手は、以下まで。
生涯学習政策局男女共同参画学習課
電話番号:03-5253-4111(内線3462)、03-6734-3462(直通)

参考: 概要はこちらから
http://www.mext.go.jp/a_menu/ikusei/syouhisha/index.htm
調査報告の全編はこちらから
http://www.mext.go.jp/a_menu/ikusei/syouhisha/detail/1306390.htm

# by ead2011 | 2012-04-05 09:21 | 教育的アクティビズム

松波めぐみ さん 2/2

■障害学・障害者運動へ(31歳~現在)
それで、社会教育や人権教育が学べて、社会人を受けて入れている大学院ということで探して、大阪大学人間科学部の平沢先生のところを見つけました。先生のことを特に存じていたわけではなかったんですが、その当時の地球市民教育センターが主催していた「アクティビティ・コンテスト」の審査員などもしておられたので名前は知っていました。
一度落ちて、二回目の挑戦で受かって、1999年の4月に大学院生になりました。31歳でした。社会教育のことは何も知らなかったので、やはり少しは勉強して入りました。入ってみたら、教育社会学など、おもしろい授業もありましたが、社会教育はどうもピンとこない。あと、人権教育を日本(特に関西)で学ぶとなると、同和教育/解放教育の歴史や実践がぶあつくあるわけですが、私自身はそれがよく理解できなかった。自分で良い同和教育をまったく体験していないし、学生時代関東だったためもあると思いますが。部落問題じたいがなぜこれほど突出して扱われるのかわからなくて、そのあたりのことを理解するには時間が必要でした。(少しずつ学んだこと、それからずっと後になって、旧同和地区の隣保館で3年間バイトして、ようやくわかってきた気がします。)
ともあれ、せっかく大学院に入ったのに自分のテーマを決めかねていた1年目の夏に、障害者の問題にごごごごっとはまりました。
それまで、(24歳の時に出会った)障害を持っている友人が一人いて、その友人とのことはとても大事だったのですが、自分のこだわりというか、活動や勉強とはとりあえず切り離して考えていました。
それが、大学院生1年目の1999年、ちょうどそのときは日本で『障害学への招待』という本が出たばかりだったんですが、その本に出会ってとても大きなショックを受けたんです。「障害学」というのは、それまで「障害」に関わる研究は障害者自身の視点にたっていなかった、障害者を客体にみて、治療や処遇、社会福祉を与えてきたけど、それは抑圧的なものであった!と告発するところから出てきました。障害者運動の中で展開されてきた主張や考え方を整理し、実践に生かしていこうという志向をもっていました。社会を変えるため、人の認識も変えなきゃいけない、と。いちばん基本になるのは「障害の社会モデル」という考え方ですね。障害者が苦労したり、しんどい目にあうのは「体に障害があるから」ではなく、そういう人たちを排除してつくりあげた社会のしくみ・社会的障壁(制度、法、物理的バリア、偏見、慣行など)が原因だ、という考え方です。それは、私が車椅子の友人と一緒に遊んだり出かけたりするなかで漠然と考えてきたことと見事に一致しました。友人はちょっと実は活動家だったのですが、彼女が話していたことはこういうことか!と思ったり。すごく大事なことを言ってる、と直感的に思いました。また、自分の中でもやもや言語化されていなかったことが、学問として、このように提示されているということにも新鮮味を覚えましたね。私は(大学院を選ぶとき)社会福祉を学ぼうとはまったく思わなかったんですけど、その理由もわかりました。
幸運だったのは、ちょうど日本で障害学の研究が始まったばかりで、これから日本でも、関西でもすすめていこうという、勢いがある時だったんですね。院生1年目だから、学問というものに希望をもっていたところもありますし(苦笑)。
障害学を学び、学ぶ場でもいろんな障害者の人に会い、本を読み、また障害者運動が主張していることを知れば知るほど、これは「社会が障害者を閉め出している」、人権の問題だと思いました。せっかく「障害の社会モデル」という人権に親和的な考え方ができているのに、壁は厚い。とくに「教育」の中で障害学というか「障害の社会モデル」の考え方を学ぶ取り組みがない。。解放教育/人権教育の中にもこの考え方はあまり…無いわけではないけど、ちょっと違うなあと思っていました。だから、障害学と人権教育を架橋することをしたいと思いましたが、それは今も思っていますが、なかなか困難な道のりで、何度も中断しています。
院生時代の障害学の勉強については、英語の障害学(Disability Studies)本を、友人と翻訳して出版することができたり。リバティおおさかで障害学の連続講座があったり、パイオニアの取り組みでしたね。2ヵ月に一度の割合で研究会もやっていました。障害のある人、それも車いすだけじゃなくて視覚障害の人、精神障害の人、障害をもって研究している人もいましたが、鍼灸師やら活動家やら、いろんな人に研究会を通して出会いました。自立生活運動(障害をもった人が自分らしく、自己決定しながら地域社会で生きられるようにしていく運動)の現場をもっと知りたいと思って、重度障害者の介助にも入りはじめました。院生としての生活と、障害者関係の活動や介助、二つの世界を生きていました。
障害学と教育に橋を架けたいと思いながら、なかなか中途半端なものしか書けず、もんもんとしていた時期が長いです。先ほども言ったとおり、「障害とは何か」についてパラダイムの転換(「障害の医学モデル」から「障害の社会モデル」へ)があって、障害者権利条約を作ろうという国際社会の動きがあるのに、日本での「障害」問題の扱われ方はなかなか変わらないし、何をどこから始めてよいのかわからない感じがありました。日本で人権教育を考える時に大きな財産であるはずの同和教育・解放教育の中に障害児・者は出てくるけれど、やはり情緒的なエピソードが中心で、福祉教育と大差ない。人権教育をやっている人の中で、「障害」のことで話せる人はあまりいない。一方で、障害者運動を一生懸命やっている人は、目の前の課題で精一杯なところがある。
ううむ。大学院時代は、論文を書けない院生として、何度も暗黒というか、闇のスポットにはまっていました。人のせいにしたらいけないけど、なかなか「一緒にやろう」と思える人と出会えない。自分もうまく説明できないという感じですね。いったんそれをおいて、フェミニズムをかなり勉強し、「障害者とジェンダー、セクシュアリティ」関係でいくつか論文等を書いていたこともあります。あ、私自身、30代半ばになってやっとフェミニズムの本をよく読むようになって。(20代の頃はあまりピンと来ず。)
へんな話かもしれませんが、「当事者の学問」である障害学を(健常者として)やり始めて、そのあとで、フェミニズム/女性学の本も読めるようになりました。それなりの当事者性をもって、「障害をもたない女性」として考えようとした。ただし、それが一番のテーマになるというと、そうではありませんでした。
40歳でここ(京都の財団)に就職しました。9年間の大学院生活で結局博士論文は書けなくて、経済的にも苦しくなり、つらい時期でした。実は、(これを話すとますますこんがらがるのですが)博士課程の時代、在日コリアンの人権啓発に関わるNPOで週2日ほど、3年間バイトしています。その頃、在日外国人の子どもの教育についての研究プロジェクトにも入っていて、障害学と二足のわらじでしたが、どちらも中途半端でした。時間とエネルギーの限界を感じて、2004年、結局在日外国人の方面は撤退しました。バイト先が破綻し、体調を壊したり、いろいろありました。
そのバイトのあと3年間(2005~2008)、今度は豊中の旧同和地区にある隣保館で働いて、部落問題についてやっといろいろ「腑に落ちて」きたような気がします。この時期は障害者運動でも重要な時期でした。なんだかんだと常に複数の問題に関わっていると、そのおかげで気づくこともありますが、やはりしんどかったのも事実ですね。被差別部落、在日外国人、女性、障害…それぞれの課題の間でひきさかれる。ある運動をしている人たちは、別の運動、別のマイノリティのことを見事に何も知らなかったり、ということを実感するのも日常的でした。
2008年4月に京都に(期限付きとはいえ)就職できて、本当にほっとしました。それからやっと、障害者関連のやりたい活動というか、実践に関われるようになった気がします。2008年秋に、大阪の堺で「アドボケーター養成講座」というのが開かれて、参加しました。これは障害者差別禁止条例を各地で作っていこう、そのためのリーダーを育てるのが目的の講座でした。熊本で活動する、本人も車椅子の弁護士・東俊裕さんがファシリテーターです。全国各地から障害当事者が50人ぐらい集まって。東さんが本気で運動し、仲間に呼びかけている姿に触発されたし、北九州や福井など、各地で運動している魅力的な当事者にも出会いました。
うまくいえないんですが、このアドボケーター講座をきっかけに、「あ、自分も運動していいんだ」と思ったんです。障害者権利条約(障害の社会モデル)の考え方を広めていくということは、研究だけじゃなく実践で行っていく必要がある。それは自分自身の責任でやればいいと気づいた。いままで、障害者の運動に健常者がどう関われるのか、何もしないほうがいいんじゃないかという気分があって、自分を抑圧してきていたことに気づきました。
ちょうどそのアドボケーター講座の後、2008年11月ですが、「障害者の権利条約を活かしていくために、障害者団体のネットワークをつくろう」という動きが京都で起こっていることを耳にしました。矢吹さんという当事者の方が呼びかけていたんですが、その時初めてしゃべったのに、「わたし手伝います」と言って…。その人のことも、京都の運動のことも何ひとつ知らなかったんですが、それでミーティング(事務局会議)に出るようになり、現在に至っています。ネットワーク組織で差別禁止条例をつくる運動を進めるための、事務方の手伝いともいえます。いろんな運動、団体の人と関わるし、折々にトピックもあるし、ほんとに勉強になります。最初5つぐらいの団体だったのが、どんどん増えて、いまは40団体にまで広がっています。2カ月に一度集まり、それより頻繁に事務局会議をして。半年に一回ぐらい大きなフォーラムをしたり、勉強会をしたり。
(マイノリティの運動、反戦や脱原発の運動、どれもそれぞれ違いがありますが)障害者運動が他の運動と違っている面を、時々考えます。多くの場合、発信が団体単位なんですね。デモや集会のような大きなアクションで、ほんとに「一般」の人々の参加を想定していないなあということもよく感じます。20代のときに経験したNGO活動では、自分が関心を持てば、ふらっと参加していた。9.11の後のアフガニスタン侵攻反対とか、イラク戦争反対とか、ガザ爆撃の時とか。でも障害者運動は、「今どうなっていて何が必要か」というのが、当事者・関係者以外にはわかりにくくなってしまっている。これも中にいたらそれが当たり前になってしまうのだけど。もう少し違うタイプの運動があってもいいのにな、とか。2003年頃から、障害者運動ではずっと大きな(切実な)動きが起こり続けているんですけども…。
角岡伸彦さんの本、『カニは横に歩く』で、1970年代からの兵庫の青い芝運動の中心にいた人々の群像が描かれていますけど、とても画期的な運動があったわけだけど、思想として定着していったものがある一方、結局のところ、限られた人しか地域で生きていないということを、しばしば考えます。多くの重度障害者は施設にいて、非常に制約された生活を送らざるをえない。
その人たちにとって「運動」がこんなことを達成したと言っても、何の意味があるだろう。その人たちが「地域に出る」手伝いをする、地道な活動を続けてきたし、今も続いている。でも地域間格差はとても大きい。「地域移行」を本当に進めるには介護保障の制度化が必須だから、ずっと脈々と運動があった。2003年に「支援費制度」が始まり、それまでは使える制度が自治体ごとに違っていた(全くない自治体も多数)のが、全国一律の制度ができた。でも使える介護時間時間数の制限あったり、判定の仕方が実状に合わなかったり…。一つずつ訴えて、早々と制度が破綻した後、厚労省は介護保険との統合をもくろんで、大きな反対を押し切って、2006年に自立支援法を強引に通してしまった。とても簡単には説明できませんが、こうした国内の大切な動きも、そして同時期に障害者権利条約が国連で採択されたことも、NGO時代からの友人や大学院の人たちは知らない。当たり前かもしれないけど、なんでこうなんだろうと思ってしまうことがあるんですね。 
障害者権利条約のことは自分の転機としても大事なので、ちょっとお話しておきます。2006年、自分がこれまででいちばん貧乏だった頃ですが、その年の8月に国連で「第8回アドホック委員会」が開催されることを知りました。2002年頃から会議を重ねてきて、いよいよ条約ができる、その直前の会議です。権利条約にとても関心があるけど、なかなか実感がわかない。国連の会議に日本から参加した人のレポートは目にしてきたけど、用語一つとっても難しいわけですよ。権利条約は、今後必ず日本社会における障害者運動(あるいは人権運動、人権教育?)にとって非常に重要なものになるという予感はありましたから、なんとかそれを作っている現場を見て、空気を吸いたいと思ったんですね。私はどこの組織も代表していない、自立生活センターの事業所に登録している一ヘルパーです。でも、誰でも参加できると聞いたので、友人のつてを頼って、DPI日本会議の人に連絡をとって、申し込んでもらいました。当然ながら参加費、渡航費、滞在費、すべて自腹です。ニューヨークに行ってみたら、最終的に40人ぐらい来てたんですけどね、日本から。バリアフリーの高級ホテルに泊まっている人たちのかたわら、一番安いドミトリー(6人部屋)からゴム草履で国連に通いました。2週間弱もニューヨークに行けば、それでも蓄えをくいつぶすような旅でした。もちろん行って良かったですけど、当時はわからないことだらけ、知らない人ばかり、私がそこにいるのは当然でもなんでもなくて、不安でした。
ともあれ世界中からさまざまな障害種別の当事者が集まって、NGOとしての発言やロビイングをしている。政府代表の中にも障害者がいる。委員会のときだけでなく、会議場の内外でさまざまな細かい調整が続けられていました。聴覚障害の人のための文字放送のプレゼンがあったり、日本政府と私たちNGO側との意見交換の場があったり。いろいろな利害の衝突や難問をクリアする努力が深夜まで続けられる。ああ、こういう動きの中で条約ができるのかと。日本から代表で行っている障害当事者の人たちの必死の活動にふれて、条約ができることがどれほど切実に必要なことなのかを実感する出来事もありましたね。また、私が「これはすごく大事なことだ」と直感して学んできた障害学の、「障害の社会モデル」が権利条約には埋め込まれている。これは研究者や専門家ではなく、障害者当事者のとても大変な運動のなかから出てきて、共有されてきた考え方です。それが人権の条約の柱になるまで高められた、ということじたいにエンパワーされます。いや正直いうとその後じわじわと、アドボケーター講座等を経て思っていることです。
障害者権利条約にまだ日本は批准していませんが、3年以内にはするでしょう。その考え方、なかみをどう普及していくか。これを人権教育としてどう行えるかを考えたい。それは他にやる人がいないと思っています。「障害」の世界と人権教育が、人脈としても「切れている」実態がありますから。
その昔、もう20年近く前ですが、アムネスティのボランティアをしていた時、「子ども権利条約の翻訳創作コンテスト」を恒成さんの発案でやったことがあって、当時ボランティアとして手伝ったことがありました。そういうのも一つの案だし、いろいろな方法で権利条約のなかみを広め、条約を道具として社会を変える運動につなげられたらいいな、と。まだ妄想ですが。
 障害者の運動は日々待ったなしというところがあります。忙しい。介助体制は、いつ崩れるかわからない。施設から出たい人が家族に反対されたり。家探しで苦労したり、交通機関の乗車拒否に遭ったり、就職しても簡単にクビになったり。目の前のことがいつもある。誠実にやっている人たち――障害当事者でも、かれらと一緒にやってきた人でも――の磨かれたセンスや確かな人権感覚はほんとすごいと思う。本人は「人権」とか意識してないだろうけど。本当に尊敬できる人は現場にいると、特に京都の運動にふれるようになってから強く思っています。だからこそ、そのすごい部分を普遍化する言葉を探したいとも思っています。学ぶことがエンパワメントになるような学習を構想するためにも。

2.「気づきから行動へ」、行動変容、アクションに結びつくための教育に求められるものは何でしょうか?

非常勤講師としてもっている授業のなかで、障害当事者をゲスト講師に呼ぶなど、種まきはしていると思います。だけど授業だけの関わりという限界がある。本当はフィールドワークに連れていくとか、じっくり話すとか、いろいろなことができたらいいのにと思う。
社会教育関係や公務員対象の研修で、「障害者と人権」みたいな話をしにいくこともありますが、どこまで伝わったかなという悩みは常にあります。権利条約の話もしますが、少なくとも「1970年代以降、障害者運動がこの社会をどう変えてきたのか」、それでも「同時代を生きている障害者からこの社会がどう見えているか(最近の差別事例等)」を伝えることを忘れないようにしたいと思っています。それと「障害の社会モデル」の話は絶対にやりますが、どこまで自分との関わりを考えてもらえるかなあ。社会の中に障壁があるから、社会で生きている自分が無縁なはずないんですけどね。
かくたさんがおっしゃっていた「教育的アクティビズム」ということばは、自分のめざしているものにぴったり来たことばだった。私の場合、いちばんやりたいことは何だろう?と模索してNGOの活動をして、そこから「社会を変えるには教育だ」と思って移っていったわけで、アクティビズムの要素のない教育にはあまり興味がないので…。運動への参加の中で学ぶことも関係があるのかな。とにかく、自分が学んで変わって、エンパワーされることと、社会をよりよい方に変えていくことが同時に起こるような、そんな学習をつくりたいという野望は手放さずにおきたいです。
インターネットで検索しても、この対話のブログだけしかひっかかりませんが(笑)、これから必要なことばだと思います。


インタビュア雑感

とても刺激的なお話だった。運動の当事者性を獲得することは、何によらず大変だが、「運動へ」「教育へ」「障害者の権利へ」という三つの契機を通して、自分との和解を果たして来た道のりを、語る姿勢が、ゆるぎない。
録音には残っていないが、「いまのあなたの姿をおかあさんが見たら、喜ぶね」と言われたことがうれしいと、最後におっしゃっておられた。

障害者の権利条約が描き出したパラダイム・シフトは、すでに、子どもの権利条約が提示していたパラダイム・シフトでもある。「保護を受けるのは主体性の発揮のためである。」子どもが保護を受けるのはそれが子どもの権利であって、保護されているから主体性を否定されるのではない。それは「弱者を抱えている」時の女性もそうだ。保護を受けているからといって、主体性の発揮を阻まれるものではない。男性に都合のよい「女性」というカテゴリーを生きるのでもない。弱者を引き受けていない男性の基準に合わせるのでもない。

障害者も、健常者の基準に合わせるのでもない、「障害者」というカテゴリーを引き受けさせられるのでもない。一人ひとりの主体を十全に生きる、そのために、社会的ケアがある。

わたしが「女性を縛る「夢」の足枷」と表現したものは、障害者にも存在する。のだね。
http://ericweblog.exblog.jp/14254665/

「近代」が基盤を置いて来た「夢」の数々から、さめることを手伝うのが、生涯学習、生涯教育なのかもしれない。さて、学校教育は、いかがしたものか。

○ステップ1 考える練習をしよう。
○ステップ2 違う未来があってもいいはずだ。いまのどこかがおかしい。
○ステップ3 越えていけ、わたしたちを。近代の人間化と教育の人間化。

かなあ。

最後は書き起こしきれない対話になってしまったけれど、これまで「環境教育者の二つの帽子」、すなわち、モデルとしてのアクティビスト、環境保護運動をする人としての帽子と、教育者として一人ひとりが考えることを支援する立場の帽子と言って来た。そこに、実は「研究者」としての帽子も、存在するのだということを、学ばせてもらった。「教育者」は「活動家」でもあり、「研究者」でもある、三つの帽子。

ちょうど読み進めていたオギュスタン・ベルクの『風景という知』を思い起こしながら、「ヒリヒリする」と表現した、松波さんが自分自身の中に作って来た風景を感じていた。

教育は、景観づくりなのか、それとも風景づくりなのか。
日本という風土の中で、新たな風景を見たいと、そんな気持ちがした。

# by EAD2011 | 2012-01-16 12:39 | 教育的アクティビズム

松波めぐみさん 1/2 (財)世界人権問題研究センター

*2012年1月15日加筆修正(まつなみ)
2012年12月28日 午後0時半から午後2時半 約2時間

松波めぐみ (財)世界人権問題研究センター
http://ericweblog.exblog.jp/14416028/http://ericweblog.exblog.jp/14416028/
その他、略歴についてはFaceBook 参照
http://www.facebook.com/profile.php?id=100000893760617

インタビュアおよび記録起こし: 角田尚子

1.活動家としての背景は何ですか?
2.「気づきから行動へ」、行動変容、アクションに結びつくための教育に求められるものは何でしょうか?

1.活動家としての背景は何ですか?
■人権活動へ(23歳~)
まず大学時代は、何もしていませんでした。きっかけはわりと明確で、20年前、普通に会社員をしていた23歳の時、母親がパタッと亡くなってしまったのです。まだ59歳でした。その時、それまでずっと母と向き合うことを避けて来ていたことに気づいた。向き合わざるをえなくなった。
母親は熱心なキリスト者でした。しかも保育士をしながら、子どもを育てながら、40代で思い立って牧師を目指して勉強し、7年かけて牧師になった人です。倒れた時、牧師になって10年もたっていませんでした。
私も子どもの頃は教会に通っていましたが、中学生の頃からキリスト教に疑問を持ち始め、教会に行かなくなりました。両親は信仰をもってほしいと思ってるのはよくわかるけど、どうしようもなかった。教会に行かないことをどうこう言われたことはなかったけど、家の中に緊張関係がありました。息苦しくて、そこから逃げたいと思って、東京の方の大学を選びました。大学時代はのびのび過ごし、もう大丈夫だと思って、Uターン就職で実家に帰りました。ところがその1年後に母の死です。くも膜下出血で、倒れてから一度も意識が戻らず、何も話せないままで。そりゃショックでした。お葬式の時、信者の人たち、友人知人がたくさん来て、母親に感謝する人、「まだ牧師としてこれからだったのに」と言う人も多くて。母は慕われていたと思います。直接は何も言わないけど、みんなが私について、「めぐみちゃんが信仰を持ってくれたらいいのに」と思っているのは嫌と言うほど伝わってくる。もちろん母親もそういう気持ちだったでしょうしね。すごい重圧でした。いっそキリスト教の信仰をもてたら、「いっそ信じられたら楽だな」と何度思ったかわかりません。でも、どーーーしても違う。何が違うのか。
そこで「じゃあ、わたしの信念は何だろう?」と考えるようになったんです。当時、コンピューター関係の会社に勤めていて、週休2日で、大学時代からの趣味もあった。一見立ち直ったように見えながらも内面はぐちゃぐちゃ。「自分は何を大事にして生きたいのか?」と問うようになった。否応なく、向かいあわざるをえなくなった感じです。
自分が何をしたいのか、それを探すために、片っ端から新聞記事のイベント欄に目を通して、目についたものにふらふら参加していました。何に心を惹かれたかというと、共通しているのはどうやら「人権」らしいと気づきました。またその悩んでいた時に、たまたま大阪の有名なアムネスティの活動家、恒成(筆名は阪本)和子さんが書いた『なんでアムネスティ』という本に図書館で出会いました。アムネスティというNGOのことも何も知らなかったんですが、その本は面白かった。「内面の自由」ということが私の中でピンときました。アムネスティは人権NGOですが、特にどういう人たちの救援をしているかというと、「思想信条や、それを表現したために、捕えられたり拷問を受けたりしている人」なんですね。そういう被害者のために、ごちゃごちゃ雑多な市民が、(被害者が)自分の思想や宗教と違っていても、何の利害関係もなくても、その人たちの自由と人権のために「手紙書き」等の市民ができる方法で行動する。それが巡り巡って自由な、人権が尊重される世界に近づいていく…というのがアムネスティ活動ですね(世界情勢の変化もあり、現在は少し違いますが、1990年代前半当時)。
自分が「信じる、信じない」で苦しい思いをしたので、「良心の囚人」が気になったんですね。もちろん私は人権侵害にあったわけじゃないけど、「内面の自由」がないような感じで苦しい思いをした。アムネスティでは、「被害者の誰々さんと同じ考えだから、共感するから」支援するのではない。ただ「その人がその人であることによって自由を奪われる、それはおかしい」ということで、国境も文化も宗教も超えて市民が連帯する。そこになんだか、救いを感じたんですね。観念的に聞こえるかもしれないけど、「自分を解放するために」参加していた、と思います。
思い切って会員になって、ニュースレターをとって、「誰々さんを釈放してください」という手紙を書く。でもそれだけじゃ物足りないので大阪の、当時中津にあった事務所にも行きはじめました。そこでいろんな会員さんと出会い、おしゃべりするのが楽しくなったのも「はまった」理由ですね。よくあることだと思いますが。
ところでアムネスティの活動は日本ではなじみにくいですよね。メジャーにはならない。国際的にそこそこ有名といっても、近年も会員が減り続けているし。やはり具体的に「△△の子どもたちが学校に行けるように」とかの方がウケますよね。わかってもらいにくい。しかし、その活動を通じて、新聞にもほとんど載らない世界の情報を知っていきました。90年代当時、ホットなテーマはいくつもあったわけですよね。ベルリンの壁が崩壊した後の旧東欧地域での紛争とか。でもソ連のチェチェン侵攻、アフリカや南米の名前も知らない国でも、ものすごく深刻な人権侵害がある。ひたすらクールに情報発信をしている。(幽霊会員になっている今でも、ああいうことにふれたのは良い経験だったと思っています。)
そうそう、私、一つに絞れないと思っていたんですよ。市民活動やNGOには、日本の中の「この問題」「この国のこういう人たちを支援する」という活動もあるけど、私は特定の国や場所に絞れないと思った。「ここだ!」と決められないというか。でもアムネスティの活動は、思想信条や表現の自由を守るということで、いろいろな社会活動をしている人々の下支えになるような活動だと思ったんですね。内面の自由を守るということは、一人ひとりの内面の自由を守り、活動の基盤を守ることなのだと。
当時、中津にあった事務所に出入りしていた人たちで、アムネスティだけをやっている人はほとんどいなかった。地域で、あるいは誰々さんをどうとか、具体的な運動を一方でしながら、他方でアムネスティもやっていた。いろいろな情報があり、わたしの悩みを聞いてくれる大人の人もおり。いろんな年代、職業の人と話すのも楽しかった。そんなわけで、会社の帰りに事務所に立ち寄るのが楽しみだった時代がありました。
■人権教育へ(27歳~)
「教育」に興味を持ったのは、27歳の時です。阪神淡路大震災があった1995年、私は働き始めて5年目でした。それまで会社員しながらアムネスティの活動をしていて、それはそれでよかったんだけど、もやもやしていました。震災の年、でも実はそれがきっかけでもないですね。ちょうど95年4月から大阪YWCAで開講された「国際関係開発学科」というコースがあって、おもしろそうだったので、退職して入学しました。ちょっとは貯金もできたし、やりたいことにたくさん時間を使いたいと思ったのです。国際的な社会問題(ジェンダー、開発、宗教…)、あるいはソーシャルワーク、企画のやり方などを集中して学ぶコースで、金香百合さんがはりきって作らはりました。断片的に知っていたさまざまな問題について、基本的なことを学べたのは良かったです。同級生たちも意欲的で、楽しかった。いまもつながりがあります。頭でっかちなアムネスティの活動家(笑)とは違う感じで。
その95年の夏休みに、アムネスティの友人の企画で、フィリピンへのスタディツアーに参加しました。初めての東南アジアです。ゴミの山、貧困層のコミュニティを訪れたりホームスティをしたりという普通のフィールドワークに加え、「演劇を用いた人権教育ワークショップ」がありました。体を動かしながら、人権侵害を受けるリスクの高い高校生や農民も参加して、ワークをしながら、Empowermentする。そのやり方や考え方に関心を持ちました。人々の元気さ、フィリピンの空気そのものにも刺激を受けましたが。
ちょうどその頃、アムネスティの活動に迷いがあったんですね。手紙書きはいいとして、たとえば海外からのゲストを招いて、大阪で中身のある講演会をしても、来る人は「すでに関心のある人々」で、10数人、多くても何十人。知識を深めて、さあ、人権状況の改善のために手紙を書きましょう、と。でも、これじゃ社会に広がらない。もともと高学歴で暇と知識のある人が知識を増やすだけという気がしてきました。
たとえば当時インドネシアに占領されていた東ティモールのことも、救援活動で取り扱うのだけど、キャンペーンでは「インドネシアにおける人権侵害」の数々を紹介するということになる。それはそれで大事だけど、たとえばインドネシアと日本にはODAや経済的搾取のような問題があったり、歴史的には戦争加害のこともあったり。でもアムネスティのキャンペーンをやるとしたら世界共通、淡々と「こういう人権侵害が」。何か思考停止?みたいな感じがして。日本にいる市民が、このあたりの国に関心を持つとしたら、もっと先に知るべきことがあるんじゃないの?とか、フィリピンに行ってからいっそう感じるようになりました。すべての問題はつながっているという実感をもつようにもなり、社会を変えていくために何かしたい、どうもアムネスティの活動だけでは飽き足らないのは確かで。もっとやりたいことは何だろう?と。
じゃあ何をする? といっても、よくわからないんですね。専門学校での一年が終わって、でも何か学んだことを生かせる仕事ができるわけでもない。とりあえず派遣で働き始めて。結局2年半、派遣で働きました。そのうちだんだん、「自分の専門性はこれだ」というものを持って活動したいと思うようになりました。
フィリピンでの経験から、あるいはYWCAでの経験からばくぜんと「教育」に興味をもちはじめたれど、私は学校は大嫌い。そもそも、大学時代も文学部にいてまわりは教職科目をとってたけど、自分はそれもとらなかった人間です。だけどYWCAで受けたような授業、アムネスティで体験したような大人の学びに関心を持っていました。やはり、自分が「学んで良かった。変わってきた」という実感をもっていたからですね。
まわりの人々(たとえば派遣で働いている自分の職場)を見ても、もっときっかけがあれば、何かできる人がいるじゃないか。潜在的にいいものを持っている人はたくさんいる。これまでと違った人を巻き込む、学びを通して、社会を変える。そういうことに関わってみたいと思いました。自分が参加して、学んで良かったという経験が、やはりベースにありますね。

# by EAD2011 | 2012-01-16 12:39 | 教育的アクティビズム

大畑豊さん インタビュー

大畑豊 さん

2011年11月7日(月曜日)15:00-17:00

1.アクティビズムへの関わりのきっかけ
2.平和運動のいま
3.教育に対するご意見

以上の三点をお聞きしたかった。
これまで教育関係に従事する研究者・教育者に話を聞いてきて、
1.教育研究と教育実践現場をどうつなげるか
2.研究者/教育者の社会的アクティビズムの有効性
3.教育者としての教育実践の工夫
というような活動そのものが「アクティビズム」であると捉えられること、捉えられていることがわかった。おもしろい人選だったなと思った。
しかし、あまりにもクリアに三人三様であったために、あるいはそのように「パターン化」してしまうわたし自身の悪い癖で、トカトントン、とんと興味が続かなくなった。3.11効果はその程度だったのか?

そこで、アクティビズムの側にいる人々を何人かインタビューすることで「対話と共考」を深められないかと思った。数多いる活動家たちとなると、選ぶ範囲も広がる。そこもまた直感とご縁ですすめていこう。

大畑さんとはグリーンピース時代に実施した非暴力トレーニング以来のお知り合いかもしれない。時々に出会うので、スリランカの方とのインタビューの時同席していただいていたのをきっかけに、インタビューをお願いした。

【アクティビズムへの関わり】

高校生の時に「社会問題研究会」(主に福祉関係のボランティア活動を行っていた)に所属していました。同時に柔道部でも活動。ボランティア活動には、当初そんなに熱心でもなかったが、おもしろい人々との出会いがあり、積極的に関わるようになりました。

大学でも続け、リーダーやサブリーダーなどをしていて、社会問題を扱っている人々と出会いがありました。そんな関係で市民運動デビュー。最初は反原発でした。国会前や日比谷公園などに出かけました。80年代のことです。デモにも行きましたが、機動隊が多いのに驚いて、恐る恐るという感じでした。その頃、「アジア人の英語教室」というのに参加。阿木幸男さんがやっていて、流暢に話すのではなく、アジア人とのコミュニケーションのツールとしての英語を勉強しようというもの。それが阿木さんとの出会いでした。そこで「非暴力トレーニング」に誘われて、その後私自身もトレーナーになり、原発のない社会を目指す3泊4日の合宿の手伝いをし、その合宿の最後には原発の危険性を訴えるゲリアシアター(寸劇)を横浜駅前でやったりしました。

歌って踊れる市民派「歌劇派非暴力団」(非暴力アクションネット)というのをトレーニング参加者とつくり、核燃料搬出阻止の座り込みや行進等いろいろ行いました。
あるとき東電の株主総会会場の前で、蝶ネクタイのスーツ姿並び歌を歌ったのですが、株主たちは余興かと思って聞いていると反原発の歌だった、ということもやりました。

PKO法案反対行動のときに、人間の鎖で国会をとりまく活動の前には、ピースキーパーと呼ばれる、参加者と警官隊との間に問題が発生したときに対応する人たちをトレーニングし、不当な逮捕を予防する活動も行いました。
山谷の炊き出しなどは専従としてやった時期もあります。アイヌ一万年祭を手伝いに二風谷へも出かけたりもしました。
大学を出て3年間福祉の仕事をしたあと、ピースボートの「日本国中原発アッチコッチ見聞録」という全国の原発を海から訪ねるツアーに参加。

その後オーストラリアにワーキングホリデーで行きました。普通にバイトしながら旅しようと思っていたのですが、最初に阿木さんに紹介された平和運動家の家にホームステイしたら、次の活動家の家を紹介され、結局平和運動家巡りみたいになりました。アボリジニーのコミュニティを訪れていた時、湾岸危機があり、「イラクがクウェートに侵攻した」とのニュースがラジオから聞こえてきて驚きをもって聞いていました。帰国後、日本政府が戦費協力しようとしていたので、それに反対する活動に参加し、湾岸戦争戦費差し止め平和訴訟にも参加しました。

そのとき最大の暴力である戦争に対してわたしたちは無力なのだろうかと考えさせられました。
そんな時に米国の知人に紹介されPeace Brigade International(PBI)の活動に出会いました。PBIというのは、紛争地帯で非暴力的に活動している人に同行することでその人の命を守る活動です。
http://www.peacebrigades.org/

ちょうど「トレーニングがあるから参加してみないか?」と誘われました。当然、トレーニングを受けたら派遣ということになるのはわかっていました。日本人としての参加は初めてでした。
紛争地での活動ですので、当然それなりの危険も伴うので最初迷いました。PBI経験者で非暴力トレーニングの第一人者でもあるジョージ・レイキーやスリランカから逃れてきた人とかにも話を聞いたりしました。

スリランカに1993年から94年に派遣され約9ヶ月活動に従事しました。その頃は3ヶ月単位でかわっていたりしましたが、今は1年以上とかになっていると思います。平和構築は短期間では信頼関係を築けないというのがその背景にあるようです。
任務が終わったらすぐに出国するのが規則なので、インドに渡り、ガンジーのアシュラムにいくつか行きました。そのときにガンジーの思想と実践の広さと深さに気付かされ、帰国後にガンジーの本をいろいろ読み影響を受けました。非暴力ということでは沖縄の阿波根昌鴻さんに出会ったことは、非暴力のあり方について考える上で大きかったです。地に足着いた非暴力の迫力。難しい言葉がひとつなくて、ズシンと胸にしみる阿波根さんのお話しには感銘を受けました。

彼は戦前、農民学校をつくろうとしていて、少しずつ少しずつ島の土地を買っていました。構想の8割方できたいたそうですが戦争で破壊され、戦後、米軍に強制収容され、その後の半生は農民学校の実現と平和のために捧げられました。
困ったときは、こういう時、阿波根さんならどう考えるかな、どうするかなと思ったりします。

インドから帰国後、田畑健さんという日本でガンジー思想を実践しようと和綿を育て、チャルカ(ガンジーの薦めた手糸紡ぎ機)をしている人に出会いました。『ガンジー 自立の思想』の編集にたずさわった人です。鴨川和棉農園を営んでいます。
http://homepage2.nifty.com/wamen-nouen/
そこのワークシッョプに参加して、和綿の種をもらい、いま、育てています。自分のマフラーでもつくりたいと思っています。

ガンジーは現在我々が享有している「富」と「豊かさ」をもたらした近代化文明・機械化文明が様々な問題を引き起こしており、「人類にとって禍根を残す」ものとし、他国の犠牲を前提とした経済システムを徹底的に批判しました。全ての人々が持てないものを持つことは搾取である、とガンジーは言います。地球上の資源が限りあることを考えれば、これはあながち大袈裟な表現でもありません。
また工場でできたものは安くて均一で質も高いかもしれませんが、少ない人数で生産できるため多くの失業者も出します。自分は安くていいものを手に入れることができるかもしれないが、その社会的代価は高くつく。一人ひとりがチャルカという小さな工場の主人となれば、経済的自立ができるとともに、その結果として精神的自立もでき、インドも国として独立していく、とガンジーは考えていました。

現代社会をガンジーの視点から見直すことは、全人類がいかに共存していくかを考えるに当たってたいへん有益であると思います。

【平和運動のいま】
ガンジーの非暴力は、政治運動もあるけれど、日常生活という足元からのアクティビズムですね。「もしも、変革を望むなら、その変革を生きなさい」という。

PBIのような「護衛的同行」の活動をしている団体は世界に20ほどあり、平和構築に関わる団体、運動体もたくさんあります。

ランダムに思いつくものを挙げて見ると
・政党系の平和運動
・ガルトゥングの平和学、対立の解決―トランセンド
http://www.transcendjapan.org/
・1999年ハーグ平和アピールの主催団体の1つPeace Buerear
・ジュマネットなど、個別の紛争地域の問題に特化したもの
・良心的軍事費不払い運動 
・CAP(Child Assault Prevention=子どもへの暴力防止プログラム)活動
 http://www.cap-j.net/

暴力は事件であるので記録されるけれど、非暴力的にうまく解決した場合は「事件」ではないので書き残されない、記事にならない。だから歴史を見ると「人間の歴史は戦争だらけだ」とつい思ってしまう。実際はたくさんの成功例がある。非暴力の歴史をきちんと記録することが必要。

Peace is not news.

これを変える必要がある。

【教育について】

高校生のためのワークショプなどに呼ばれることがある。参加型のコミュニケーションに慣れていないことや、先生に言われての望まない参加であると参加の意欲が低くうまくいかない。もちろん先生自身がきちんと理解しどのように説明、誘ったかということも関わってくる。参加人数よりも参加意欲がワークショップには重要。通常の授業でも、対話型、教員と生徒の間も含めて、コミュニケーションのある学び方をしていく必要を感じる。

教育と関係あるか、わからないが、PBI等での経験で、会議でどんなに激論になっても会議が終わると何もなかったように談笑が始まる。日本でこれだけの激論になったら人間関係にもかなり影響が出てくると思うのだが、意見と人格をきちんと分け隔てること、忍耐強く相手の話を聞く訓練は小さい頃からしないと(小さい頃からしても?)身に付かないのではないかと思う。

【その他】
・議論では相手と違う点に注意がいってしまうが、ガンジーや阿波根さんは「相手を受け入れ、共通の基盤を探し出す」ことがたいへんうまく、「敵」をも「味方」にしていくところにその醍醐味がある。相手を言い負かすという態度でなく、阿波根さんの言う「相手を教え導く」姿勢というものが足りないと常々感じる。
・『被抑圧者の演劇』(アウグスト・ボアール , 里見 実 (訳)晶文社)の手法は興味深い。例えばある問題設定(夫婦喧嘩とか、社会問題とか)をした劇を演じ、途中からは観客も参加して、その解決策を観客自身も演じながら考えていく。非暴力トレーニングや他のワークショップでもロールプレイ(役割劇)としてこの手法を取り入れている。本書は絶版だが、ボアールの使った手法を紹介した本が近々出版されるので待ち遠しい。

【いただいた参考資料】
・非暴力平和隊・日本NPJ ニュースレター 第40号
以下案内チラシ:
・高岩仁監督作品上映会「教えられなかった戦争・沖縄編」2012年1月28日
・映画「福島 六ヶ所 未来への伝言」2012年 秋公開予定
・「あなたの食卓何ベクレル?」11月13日(浦和パルコ)
・「フクギの雫」 2011年12月3日(文京シビックホール)
・「終焉に向かう原子力」第13回2011年12月17日文京区民センター


【参考情報】
「別冊宝島 原発の深い闇2」11月発行 
「ガンジー・自立の思想」 M.K.ガンジー、地湧社、1999
鴨川和棉農園  http://homepage2.nifty.com/wamen-nouen/
「木綿以前の事」 (岩波文庫) 柳田 国男
ハーグ平和アピール 1999年  
http://www.ne.jp/asahi/nozaki/peace/data/hap_outline.htm
「被抑圧者の教育学・新訳」パウロ・フレイレ、亜紀書房、2011

その他、ロケットストーブやUnder Controlなど、情報満載のインタビューでした。後半は、いろいろと雑多な情報交換になってしまいました。もっと、深い分析をいっしょにできたらよかったのにと思いました。別の機会に、別の形で。

# by Ead2011 | 2011-11-08 11:02 | 教育的アクティビズム